私と娘の現在地2024夏

娘、7歳。小学校に入学して、ちょっとはしっかりしてきたのだろうか。と思い娘を見やると、カレーを溢したTシャツ着たままチキンラーメンのCM真似して「ぽんぽんすぽぽーん!」言うて踊っていた。全然しっかりしてきてない。そのくせ、1学期末の通知表には、しっかり落ち着いて授業を受けているなどと書いてもらっていた。先祖代々の内弁慶だ。すっかり猫たちのお姉さん的立ち位置になり、やんちゃな雄猫を優しく叱っている。近頃は親へのおねだりが大変上手になり、ゲームがしたければ父、お菓子が食べたければ母、体を動かして遊びたくば父、ピアノを教えてもらいたくば母と…親の能力や性格や価値観をよく理解して、それぞれのご機嫌をとりながら、ちゃくちゃくと自分の欲望を実現させている。しかしビビりは相変わらずで、そこそこ大きめの遊園地に行っても乗るものといえばメリーゴーランドと、空中を自転車で散歩する超人力のやつと、園内をゆっくり回ってくれるメルヘンな汽車と…それくらいか。なんのための乗り放題パス?プールのスライダーの前で身長制限のパネルに背中を合わせるもんだから、「お、越えてるで。乗れるやん。」と声を弾ませて言ったというのに、「乗らない!!身長測りたかっただけ!!」とかキレ気味に言ってきたりもする。なんやねん。まぁ怖がることというのはリスクを理解して自分の身を守ろうとするアンテナが高いということで、えらいえらいとか思って...

早く(いい)人間になりたい。

子どもが廊下を走った時。意地の悪い言葉が聞こえた時。危険を孕む行動をとった時。教師である私は、もはや反射で注意をしている。「走るな」というより「歩こう」と言う方が長期的に見れば効果がある。自分の中で許してはならない言葉の基準をはっきりさせると指導がブレにくい。安全を守るためには、明確に強い指導を入れることも時には必要だ。こういう、悩んで悩んで試行錯誤してきたことが、いつの間にか私の中で一つの「理想的な指導」という塊となって自分の奥深くに沈殿していく。自分のそういう一面は、時に私を救ってもくれるが、一抹の不安を与えてくることも少なくない。私が人生で一番恐れているのは、認知症になることで、「脳トレ」と書いてあるものの前では必ず一旦立ち止まってしまうほどだ。私の祖母は、晩年、それもかなりの長期間(一般的に長期間だったかは定かでないが、私たち家族にとっては、とってもとっても長かったのは間違いない)認知症の症状に苦しめられた。苦しめられていたのかすら、若い私にはよくわからなかったけれど、きっと、おそらく。少なくとも、周りの家族たちは本当に暗く重たい毎日を過ごしていた。私は、絶対に自分の家族にあんな思いをさせたくない。なのに、そうなった時には、もう自分にそれを判断する力はないのだ、という事実が、あまりにおそろしい。祖母は、私と同じ教師という仕事をしていて、私たち姉妹に対しても、なんというか、教...

そんなに難しいことなのかこれは、と思った話。

 イオンシネマが車椅子の方の利用を拒否して謝罪文掲載している件、いくつかの問題がぐちゃぐちゃに議論されていて、というか議論にすらならず投げつけられていて個人が可哀想だと感じてしまう。(まぁしかしそれがSNSなんで…と思ってしまう自分もいる…)そんな激論が交わされるほどの内容でもないように思うがなぁ。 そもそも社会として依然バリアフリー化の意識が低く、「映画を楽なシートで観たい」という車椅子ユーザーの希望すら大きな人的コストを割かないと実現できないシステムの未熟さ自体が問題ではないのか、と思ったが、そういうことこそ意外と難しいのだろうか…諸外国はどうなんだろう。 なので、「業務」の中で「善意」が占める割合が高くなっている現代の労働環境の中で、あの方の言い分に不満を感じる健常の労働者が多いというのは、また別の問題だと感じた。中でも「健常な体を持つ労働者階級は、障害をもつあなたよりよほど弱者だ。」という意見は、ひょっとしたら現在の日本の多くの人が抱える不満を表現していると言えるかもしれない。いやいや、そんなわけあるかい、と思うけれどね。車椅子で毎日生きる方の方がどう考えても困難多いやろうが。でも、自分自身、「炎上」「クレーム」そういう事象を恐れて細心の注意を払いたい中枢に、どんどん業務を増やされている当事者なので、上記の意見が訴えたいことというのも、嫌というほど分かる。悲しいが...

消極的に平和を目指して

この時期にブログを書くなんていうと、普通は一年の総括とか、新年の抱負とかそういうやつにすべきなのかもしれないけど、偶々年の瀬に生まれたモヤモヤに対する殴り書きですので、あしからず。多様性の尊重、環境保全、平等な機会の保障、武力の放棄。2023年が終わろうとしている今となっても、今となってこそ、私たちが抱える問題は数知れず、その見解も、目指す方向性も人により、国により、さまざまで、果たして人類はよくなっているのか、破滅へ向かっているのか、それを批評するにしたって、それは私の尺度、偏りをもって見たものにしかなり得ない。私は、上に挙げたものを当たり前のように肯定していて、この世界は、多様性を尊重し、自然を重んじ、生まれもっての不平等さを極力是正するべきだと思っているし、どんな権力者であっても武力を行使させるべきではないと思っている。でも、この価値観の全ての出発点になっているのは、紛れもなく自分の身に偶然訪れているこの平和を継続させたい、そういう主観によるものであるとも思っている。自分が生まれもって抱えているものを誰にも否定されたくないから、そういう社会であってもらうと困る。自分がこの自然の恵みを享受できなくなると困るから、全体で環境保全に努めていくしかない。自分は理不尽に命を奪われたくはないから、どこかの国の誰かの命が理不尽に奪われる、そういうことを許容してしまう世界であり続けられるのは...

リハビリエッセイ「下手すぎる怒り方」

朝ニュースをぼんやりと見ていると、またどこぞの市長がパワハラで市の職員から告発を受けていた。次々と出てくる市長の暴言を証明する映像や音声に、職員たちの何がなんでもこいつ、辞めさせる、という強い意思を感じた。その市長を非難するアナウンサーがこれまでの経歴などを述べる中でこの市長が、「20年間、高校の教員をしていた」という事実を知った。うわぁ。思わず目を掌で覆いながらも指の隙間からチラ見してしまう感じの「うわぁ。」が口から漏れ出た。ベテラン教師は自分の怒りを完全に正義の心から生まれる愛ある行為だと信じており、怒ってあげることは、この未熟な生徒のために必要なこと!てな風に思っている人が多いのである。市職員の皆さんへ「理不尽さんのヒステリーに心を痛めないでください…」と同情の念を送った。しかし、どうしてこんなに怒るのが下手なのかなぁ。言いたいこと自体は、そこまでおかしくないやん、ていうところもあったのに。激昂してしまうせいで、結局本意は伝わらず、挙句に怒りをぶちまけている映像を晒されて、良いこと一個も起こってへんやん。これ、めちゃくちゃ目の前で怒ってる人に伝えたいけど、伝えられたことない。そらそうか。めちゃくちゃ怒ってる人がめちゃくちゃ怒っている相手から「そんな怒り方しても、あなたの目的は相手に正しく伝わっていないので、相手の行動には変化が見込めませんし、今後も反感を買い続けて人間関係はど...

笑いを堪えたいという欲求

笑いを堪える遊びがしたい。と友と言っている。「笑ってはいけない」の世界観というか。とはいえ、何かを見て聞いて笑いを堪えている状態って、なんか思い返すと基本的に失礼やなということが多くて、なかなか使えそうな状況が思い当たらない。最近笑いを堪えるのに必死やったことといえば、もちろん年くま企画の「ごじゃります」の壁や。あんな感じで、自らが何かをあえて言おうとすることで、笑いを堪える状態を作り出すのはありかもしれん。なんて言おうとすればいい感じに笑いの琴線に触れて、それを堪える必要が出てくるだろう。そういや、「走れメロス」を読み返す動画の中で、又吉さんが、メロスに「愚直すぎて後先考えてなさすぎるちょっとアホな奴」という読み解き方を付随させただけで、文章がめちゃくちゃおもしろく感じられることを教えてくれたなぁ。あぁいうのいいなぁ。ちょっと余裕あるかも、と思ったら「そんなに焦る必要もない。ゆっくり歩こう。」って鼻歌歌い出すところとかむちゃくちゃおもろい。いやお前親友はりつけにされてんちゃうんかい。その後案の定余裕なくなって膝ついて神に祈り出すところとかも、もうだから言うたやん…!ていう笑える要素にしか感じられへんかったなぁ。文学に解釈を付け加えることで、音読するだけでおもしろい状況が生まれるかもしれへんなぁ。あとはー、なんやろうなー、ラジオパーソナリティの英語の発音が唐突にネイティブすぎるのは...

夏の終わりに思うこと

夏休み、楽しかった。ほんまに。私はこの仕事に向いてなくはないというか、学校への不信感もってる保護者の方の気持ちとかも、めちゃくちゃよくわかるんよ。そら、そうやんな。子どもがんじがらめにされてな、毎日気分悪いよな、わかる。でもな、という複雑な気分で日々働いてる。でも、この感覚がきっと私を救ってくれてて、大体の方は、話せば分かってくれるな、と感じながら日々過ごせてる。そして夏休みがある。夏休みにいっぱい休んで、友達と話して、げらげら笑って、本読んで、好きな人のこと考えて、私はこのようになるべきや、とか熱心に興味のあることばっかり考えていたら、なんとなく、私はこの仕事を辛くても、続けるべきや、という気がしてくる。まぁそれでも大変やから今こんなこと書いて気持ちを整理してるんやと思うけど。西加奈子さんの「くもをさがす」ほんまに、読んでよかった。大好きな作家さんが病に苦しんでて、めちゃくちゃ辛かったけど、自分との向き合い方、他者と協働して生きていくことの大切さ、とてもクリアな視線で文章が綴られていて、読み終わったら私も西さんのように今の自分の体を愛せるような気がした。カナダでの暮らしや、そこで働き暮らす人々のことがよく分かって、それによって、私は、自分がどうしようもなく日本人なんだなぁと実感した。一番身に沁みたのは、「カナダの人は自分のミスでない限り、自分が働いている組織を代表して謝ったりしな...

遊びの記憶1 「死神」

今思えば、小学生の頃学校でしていた遊び、かなり癖があったような気がする。学校というのは、その頃の自分の世界そのものであるため、そこで当たり前に行われていることの異様さに気づきにくいものだ。大人になってみて、夫と昔話などをしていると、やはり、同じ遊びであってもその土地特有の言い回しがあったり、聞いたこともないような遊びをお互いにしていたりしたことがわかる。冷静になって、我が母校である小学校のオーソドックスな遊びを思い返してみると、そのルールの謎や今になると笑ってしまうような思い出がありありと思い出されきた。まず、中学年から高学年にかけて「死神」というボール遊びが流行しており、私もそれにハマった一人であったことを思い出した。そもそもネーミングセンスが落語家なんよ。小学校の児童が「死神やる人おる!?死神!」と楽し気に言い放つ姿はまあまあ異様である。一体だれがどのように考えだした遊びなんやろう。ルールとしては、ドッヂボールに近しいのだが、大きな違いはコートをかかずに運動場全体を使いながら行うこと。まず参加するメンバーが集まったら、ゲームの始まりを示すために、一人が代表してボールを上に蹴り上げる。これは大体、運動神経がよくてクラスで目立っている男子がちょっとかっこをつけるために担当したがる。そこまでせんでええねん、ていうほど高く蹴り上げるので、最初集まった場所からゲーム会場がこの時点で大分ず...

金と利他

「与えること」の罪悪感駅前の屋内通路でじっと正座をし、目の前に小さな缶を置いているホームレスの方がいた。私は、一旦そこを通り過ぎたが、どうしても胸のモヤモヤに堪えきれず、財布を出した。500円玉を握りしめてからも数秒、ここで振り返ることは、それはそれで間違っているという予感を感じながら、それでも、と振り返り、道を引き返した。正座をした男性は、私がたったの500円を入れたその缶のカラランという軽い音を聞きながら「ありがとうございます。」とこちらが想定した以上に深々と頭を下げた。私は、どうか誰にもこの瞬間が見られていませんように、と願いながら男性と目を合わせることもなく、その場から走り去った。私に訪れる、この居心地の悪い罪悪感は、一体なんだ。私は、彼に利他的な精神で接したいと思ったはずなのだが、彼に深々と頭を下げられていたあの時、確実に、彼と私は対等な存在ではなかった。私があのような形で500円を彼に与えたことで、彼の尊厳に大きく傷を付けることになってしまった、と後悔する側面が確かにあった。いや、彼は、それでも生きていくために、恥を忍んで缶を置いて座っているのだから、彼が助かることを行う方がより良いのではないか、とも、もちろん考えていた。私は、温かく、困っている人を困っている時に支え合う社会を理想として常にイメージしている。その理想を実現するにあたって、手っ取り早く浮かぶ方法が「寄付」...

私と子の現在地

娘の前歯が抜けた。娘は私によく似て不変を愛し、変化をちゃんと恐れる臆病者なので、自分に変化が及ぶと、それがいいことだろうが、悪いことだろうが、そんなことは関係ねぇ、というように全身で泣く。「キュウリなんて、もう食べない」と言いながら全力で泣いている。自分の前歯が抜けた原因は、悪いのは全てこの目の前の硬めのキュウリだ、と思うことで自分の心を守っているようだった。私の手の中に抜けた前歯が転がっているが、私が見たいのは前歯ではなく、前歯が抜けた娘そのものなので必死に歯列に生まれた空間をのぞき込もうとするが、娘は断固としてその姿を見せようとしない。「見ないで!見ちゃだめ!」と必死の形相で訴えてくる。なんで?どういう気持ち?よかったやん、ご飯食べやすくなるやん、お姉ちゃんになったやん、どのような言葉で褒めそやしても、娘の心は今「前歯が無くなった」という喪失感でいっぱいなのだろう。まぁ、ちょっとは分かるような、さっぱり分からんような、うーん、やっぱ分からん。これが今の娘。そして私。親子と言えどちゃんと他人で、ちゃんと、何考えてるか分かりません。そんな娘の最近の成長エピソードとしては、「自分でお風呂に入れるようになったこと」がとても大きい。子育てをタスクとして捉えるのはナンセンスであるとは思うが、「お風呂一人で入れる」はとてつもなく大きい。お風呂入ってる間にご飯の準備できた時、感動してボウル持つ...

弱くなり続ける涙腺

ほんまに、タイトル通りなんやけど、涙腺って弱くなり続けるんか?ひょっとして。みんなそう?ディスイズ人間?グッとくる瞬間、ていうものはもちろん多々あるのやけど、最近こう、グッの後追いでグアァァァて、なんかくるのよ。あ、我慢しないと溢れる、涙が。ていうところまで高まる何かがあるのよ。涙腺が弱まるほど語彙力はなくなるんかと思うほど酷い表現やけど、ほんまに。しかもそれが一般的な「泣きどころ」から逸脱していることが多くて、どういうこと?て自分でびっくりする。又吉さんが「夕暮れ時に電車の窓からファミレスが見えただけで泣ける」って言うてて、その時は、いや情緒!て思ったけど、なんかちょっと分かるわ、奥行き感じるもの見ると泣けるねんなぁ。そういうものはつまり、心の琴線に触れる何かをもっているはずなので、ちょっと記録したくなったのですね。はい。泣きそうになったこと①「車庫から夫を送り出す女性」車で早朝通勤していると、女性が家の前に出て左右の確認をしていた。車が近くまで来ていることを把握するや、車庫内の車を手で制する動きをしている。そして車が通り過ぎ、右折で出られるだけの車間を確保するや、腕を回して「行け」の合図を送った。黒のGolfはブォンと景気のいいエンジン音を立てながら勢いよく旅立っていった。あの女性はきっと、昨日もこの夫を送り出す動作をしていたんやろうなぁ、そして明日も、ニュースがお天気コーナー...

GW記録①

喉が嗄れている。低学年の担任になるといつもこうだ。咳が止まらなくなる瞬間が何度かあり、(医療ドラマで重要人物が咳き込んだと思ったら掌に血が、の時の咳やん)などと思う。しかしそれでも、大阪へ行く。車で行く。8時間かけて行く。這ってでも行く。這って行ってたら絶対にゴールデンウィーク終わるけど行く。なかなか会えていなかった人たちに会える予定。嬉しい。頭の上にふわぁっと花を飛ばす演出をする機能が人体に備わっていたら、8時間、夜通し私は花を頭上に飛ばし続けただろう。現実には私の咳とeastern youthの曲と娘の寝息が響く暗い車内だ。月が朧に光っている。こんな状況下ではおそらく(思いやりなどという単純な道徳的価値に収まらない利他の精神こそが今後の世界には必要なはずだ)みたいなことを窓際に肘を付きながら物憂げに考えていると大層格好良かったことだろう。実際のところ私は、今晩両親と行く予定の焼き鳥屋のメニューばかりを頭に思い描いていて、(「こころのこり」っていうネーミング考えた人、絶対これキタ!ヤバいの思いついてもおた!と思ったやろうなぁ。うまいこと言えすぎてるもんなぁ。)などと窓際に肘をついて、物憂げに考えていた。久々にいく我が家行きつけの焼き鳥屋は、相変わらず大盛況で、店内はバタバタと忙しない様子だった。なぜか焼き場には一人しか店員がおらず、ホールも、一人の女性店員だけが回しているようだ。...