子どもが廊下を走った時。
意地の悪い言葉が聞こえた時。
危険を孕む行動をとった時。
教師である私は、もはや反射で注意をしている。
「走るな」というより「歩こう」と言う方が長期的に見れば効果がある。
自分の中で許してはならない言葉の基準をはっきりさせると指導がブレにくい。
安全を守るためには、明確に強い指導を入れることも時には必要だ。
こういう、悩んで悩んで試行錯誤してきたことが、いつの間にか私の中で一つの「理想的な指導」という塊となって自分の奥深くに沈殿していく。
自分のそういう一面は、時に私を救ってもくれるが、一抹の不安を与えてくることも少なくない。
私が人生で一番恐れているのは、認知症になることで、「脳トレ」と書いてあるものの前では必ず一旦立ち止まってしまうほどだ。
私の祖母は、晩年、それもかなりの長期間(一般的に長期間だったかは定かでないが、私たち家族にとっては、とってもとっても長かったのは間違いない)認知症の症状に苦しめられた。苦しめられていたのかすら、若い私にはよくわからなかったけれど、きっと、おそらく。
少なくとも、周りの家族たちは本当に暗く重たい毎日を過ごしていた。私は、絶対に自分の家族にあんな思いをさせたくない。なのに、そうなった時には、もう自分にそれを判断する力はないのだ、という事実が、あまりにおそろしい。
祖母は、私と同じ教師という仕事をしていて、私たち姉妹に対しても、なんというか、教師的立ち位置から接してくるので、私は祖母が元々苦手だったし、姉に至っては苛立ちを隠そうとすらせず、立ちはだかる壁を越えようとするかのようにきちんと反抗をしていた。
認知症になってから、祖母は、1日の大半をテレビの前で過ごした。ほとんどの時間は分かっているのだかいないのだか、ぼんやりと小さな画面を眺めて過ごしていたが、漫才師のツッコミ担当がボケ担当の頭を叩いた時などには、どこに残されていたのか分からないような力を振り絞って、必死の剣幕で怒鳴っていた。
「こら!あんた!やめなさい!頭はたいたらあかん!」
テレビの画面を祖母自身が叩きながら泣きそうな顔で怒鳴っていることもあった。
その時は、自分の好きな芸人の芸を邪魔されているようにしか思えず、無駄だとわかりながらイライラと説明をしたこともあったが、今、ほとんど無意識に「やめなさい」と子どもに言い放つ自分に、ハッとすることがある。
私はきっと、祖母のようになるにちがいない。祖母はきっと、私のようであったにちがいないのだ。
祖母もきっと、私のように悩んで悩んで、「理想の指導」という塊を自分の中に沈殿させていった、一人の堅実な教師だったのだろう。
年月というものは、おそろしい。
技能も、経験も、今はまだ、自分の盾や鉾だと思ってはいても、歳を重ねていくにつれ、いつのまにか足枷のように感じられるのではないかという予感がする。
他人の人生を知れば知るほど、物語を読めば読むほど、使える言葉が、公に話していいことが減っていくような感覚がある。
私が認知症になるのをここまで恐れているのは、制御できなくなった時に表れ出るしかない自分の内面があまりにも意地悪であると感じているからで、この恐怖から逃れるには、自分が心からいい人間になるしかないのだろうと思う。
この歳から、心からいい人間になるのは、可能なのだろうか。
昨日、居酒屋で二十歳そこそこの男の子が、めいっぱいカッコつけて煙草をふかしている姿にさえ違和感(もっと正直に言うと羞恥心に似た嫌悪感)をもってしまった私が。
その後もチラチラとその子の会話を盗み聞いては、(上司の体格イジリで笑いとってんなや)などと思ってしまった私が。
店員さんを気怠げな言い方で呼びつけて、指で小さくバッテンを作りながら「チェックで。」と言ったその子に(カッコつけたい奴なんで会計のことチェックって言いがちなん?)などと、心の中で偏見に塗れた悪態をついてしまうような、愚かなこの私が。
ああ。早くいい人間になりた〜い。
妖怪人間のベムベラベロは、いい妖怪やったから、早く人間になりたい、と思うだけでよかったんやな。
人間から始めてしまった、ちょっと嫌な奴は、一刻も早く、いい人間にならなあかんのやな。
何歳になっても迷っていられるだろうか。
叩いてしまう子どもの気持ちを理解してやれるだろうか。
廊下を走る子どもは、早く楽しいところに行きたいだけなのだということを、忘れずにいられるだろうか。
自然派を謳う店のオーナーが排気ガスバンバン出しそうなお洒落なクラシックカーに乗ってるだけで、あ?それはええんか?と眉を顰めてしまうような、この私が。
かほ
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