遊びの記憶1 「死神」


今思えば、小学生の頃学校でしていた遊び、かなり癖があったような気がする。

学校というのは、その頃の自分の世界そのものであるため、そこで当たり前に行われていることの異様さに気づきにくいものだ。

大人になってみて、夫と昔話などをしていると、やはり、同じ遊びであってもその土地特有の言い回しがあったり、聞いたこともないような遊びをお互いにしていたりしたことがわかる。


冷静になって、我が母校である小学校のオーソドックスな遊びを思い返してみると、そのルールの謎や今になると笑ってしまうような思い出がありありと思い出されきた。


まず、中学年から高学年にかけて「死神」というボール遊びが流行しており、私もそれにハマった一人であったことを思い出した。

そもそもネーミングセンスが落語家なんよ。小学校の児童が「死神やる人おる!?死神!」と楽し気に言い放つ姿はまあまあ異様である。一体だれがどのように考えだした遊びなんやろう。

ルールとしては、ドッヂボールに近しいのだが、大きな違いはコートをかかずに運動場全体を使いながら行うこと。まず参加するメンバーが集まったら、ゲームの始まりを示すために、一人が代表してボールを上に蹴り上げる。これは大体、運動神経がよくてクラスで目立っている男子がちょっとかっこをつけるために担当したがる。そこまでせんでええねん、ていうほど高く蹴り上げるので、最初集まった場所からゲーム会場がこの時点で大分ずれることがお決まりだ。

そして、ボールを拾った人間が現れたらついに、「死神」という名を冠する通り、命の奪い合いが始まる。敵の命を奪うには、ドッヂボールと同じようにダイレクトにボールをメンバーの誰かにぶつければいい、それだけである。

メンバーはそれぞれライフを3機もっている。このライフを「機」と数えるやつなんなん?ファミコン文化?

一度ボールに当たるごとに、ライフは残り2機、1機と減り、残機が0になると、完全なる屍として、ボールに触ることは許されなくなる。そして、自分の命を奪った者、つまり自分にとっての「死神」が誰かから攻撃を受け、ライフを無くす度に自分の残機が一つずつ復活する、という仕組みである。例えば、誰か一人に3度ボールをぶつけられた場合、そいつに3度、誰かがボールをぶつけなければ、自分は完全復活をすることができないわけである。

今では考えられないことだが、小学校の頃私は学年1、2を争うほど背が高く、ボール運動もかなり得意な方だった。ある日の休み時間、私はいつものごとく多くの男子に混ざって死神に参加していたのだが、思い返せばあれが「ゾーン」というやつなのか?と思うほどその日は調子がよかった。誰に狙われても全くボールを取りこぼさないし、狙ったら狙っただけ、おもしろいように相手のライフを減らすことができた。そうすると、どうなるかというと、「私が当たることを望み、息を飲んでその時を待っている屍たちが大量に生まれる」のだった。


私は、気が弱かった。誰かの顔にうっかりボールを当ててしまった時、相手は大して痛がってもいないのに自分が号泣してしまうほど気が弱かった。それと同時に、すさまじい負けず嫌いであった。そのような人間にとって、この時の状況は今でも忘れがたい思い出として心に刻まれている。

まだライフが残っているメンバーは皆、死んでいった仲間達を救うため、ひいてはその場のヒーローになるため、ボールをキャッチした瞬間、私を探して一目散に突進してくる。確かボールを持っている人は、10歩までしか歩けないといった決まりがあったような気がする。ぎりぎりまで私の方に近づくと、渾身の力を込めてそのボールを放ってくるのである。しかし私は、当たりたくない。すさまじいプレッシャーを感じて、今にも泣きそうになっているのに、可能な限りキャッチしてしまうのである。私がキャッチしてしまうということは、残機0のメンバーにとっては、まだ遊びに参加できない状態が続くということと同義であるため、あからさまな落胆の声が上がる。その後も、誰かがボールを持つ。あいつを狙え!と応援の声が響く。ボールを持った人間がこちらにボールを思い切り投げてくる。私がキャッチする。「なんやねんまじ!」「いいかげん当たれって~」などの露骨に落胆する声が届く。といった流れが幾度となく(少なくとも私はそう感じていた)繰り返された。


この時の私と碇シンジを比べた時、一体どちらが強く心の葛藤を繰り広げていただろうか。私は、「逃げちゃダメだ」ならぬ「受けちゃダメだ」を何度も何度も心の中で唱え、さっさとボールに当たってこの場を丸く収めることが一番だと理性では考えていた。てかもうまじ辛い。悲しい。嫌われたくない。それが本音だ。


それでも、私はわざと当たることができなかった。あれは、一体なんなんだろうな。今ならこうなる前に間違いなく一回はボールを食らって、自分に攻撃の矛先が向かないように調整していると思う。いや、そもそも今なら普通に残機0の屍側におるんやろうけど。


負けたくない。

早く当たらないと。

負けたくない。

空気を読まないと。

それでも、私は、負けたくない!!!


なんたるエゴ。なんたる純粋さ。そして、なんたるアホさ。


あの時、私は、みんなにとっての死神だった。泣きそうな死神。歯を食いしばって耐える死神。


その後、わざとではなく、ボールに当たってしまった時、みんながわっと歓声を上げながら拍手をした。子どもだった私にとっては、割と残酷な意味をもつ拍手だったと思うが、すさまじい緊張状態から解放された安堵感と、自分なりにベストなプレーができたことの満足感によって、その拍手は、私にはこの好戦を称える拍手のように感じられた。

まったくもってアホである。


こうして思い出してみると、かなり穴だらけの遊びのように思えるが、これがどうしてだか、燃えるのだよなぁ…。あと、完全な個人戦でありながら、戦況によって協力や作戦が必要になってくるところがよくできていると思う。


そしていつも、チャイムの音で強制的に終わりが訪れる。誰が勝ちとかは特に決めることもなく、「おれ3機残ってるぅ~♪」などといった自己満足を噛みしめて、ゲームは終結する。

戦績の悪かった者はチャイムが鳴っているにもかかわらず、どうしても当てたかった相手にボールをぶつけ、まじで相手にキレられる。最悪先生に報告される。そんなこんなでいろいろあるものの、みんな死神が大好きだった。次の休み時間がやってくることを楽しみに教室へと走った。


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