娘の前歯が抜けた。娘は私によく似て不変を愛し、変化をちゃんと恐れる臆病者なので、自分に変化が及ぶと、それがいいことだろうが、悪いことだろうが、そんなことは関係ねぇ、というように全身で泣く。
「キュウリなんて、もう食べない」
と言いながら全力で泣いている。自分の前歯が抜けた原因は、悪いのは全てこの目の前の硬めのキュウリだ、と思うことで自分の心を守っているようだった。
私の手の中に抜けた前歯が転がっているが、私が見たいのは前歯ではなく、前歯が抜けた娘そのものなので必死に歯列に生まれた空間をのぞき込もうとするが、娘は断固としてその姿を見せようとしない。
「見ないで!見ちゃだめ!」と必死の形相で訴えてくる。なんで?どういう気持ち?
よかったやん、ご飯食べやすくなるやん、お姉ちゃんになったやん、どのような言葉で褒めそやしても、娘の心は今「前歯が無くなった」という喪失感でいっぱいなのだろう。
まぁ、ちょっとは分かるような、さっぱり分からんような、うーん、やっぱ分からん。
これが今の娘。そして私。
親子と言えどちゃんと他人で、ちゃんと、何考えてるか分かりません。
そんな娘の最近の成長エピソードとしては、「自分でお風呂に入れるようになったこと」がとても大きい。子育てをタスクとして捉えるのはナンセンスであるとは思うが、「お風呂一人で入れる」はとてつもなく大きい。お風呂入ってる間にご飯の準備できた時、感動してボウル持つ手が震えたわ。震える手でいい感じにキャベツの塩もみできたわ。
0歳の頃のタスク→現在
・食事→準備のみ続行
・オムツ替え、トイレ付き添い→終了
・着替え→声かけのみ
・歯磨き→仕上げ磨きのみ
・お風呂→ほぼ終了
ひゃあ~終わっていってる~どんどん終わっていってる~喜ばしさと切なさ~子育ての醍醐味の複雑な感情ないまぜのやつ~
その代わり、今は娘に教えてやらねばならないことがどんどん増えてきた。自転車とか、ピアノとか、漢字とか、なんでもできなあかんわけではないけど、まぁできとくにこしたことないわなぁ、というものがいっぱいあるんだね、世の中にはね。
案外、「ちょうちょ結び」とかさ、「安全ピンのつけ外し」とかさ、自分が当たり前にやってる些細なことを教えるのがすごく難しかったりして、改めて自分の教育に関わってくれた人への感謝の念が湧いてくるよね。めんどくさかったやろうなぁ教えるの。
あとは、何よりも会話することが年々楽しくなっていることが私にとっては非常に喜ばしい。言葉をもたない幼児の可愛さというのはもちろんあるけれど、長く付き合っていく他人としては、お互いが心地よく会話できるに越したことはない。
娘は、アドリブで替え歌をするのが結構うまい。最近は「幸せなら手をたたこう」の替え歌が一番のお気に入りだ。
「幸せなら〇〇しよう」と、さまざまな動作を表す言葉を入れて楽しんでいる。
「幸せならお散歩しよう」
「いいね。」
「幸せならフラフープしよう」
「楽しそう。」
「幸せならみんなでペンキ塗ろう」
「いきなりハードル上がったな」
「ほらみんなでドライブスルーしよう」
「免許いるやん」
しばし無言で見つめ合う私と娘。
「幸せならビール飲もう」
「まぁ、そうね」
「幸せならワイン飲もう」
「そういう人もいるやろね」
「幸せならみんなでチューハイ飲もう」
「ずっと飲んでるな」
「ほらみんなで階段下りよう」
「危ないて!!しこたま飲んでんのに!!」
しばし無言で見つめ合う私と娘。
「幸せなら…」
「もうええわ!」
そこで私はハッとする。待って、これ、漫才になり得るやん。
そうだったのか、子育てを頑張りきった暁には、漫才の相方を手に入れることができるのか、と。
今のところ娘はボケ至上主義なので、私との相性は非常によい。
しかし娘は一度ウケたネタを味がしなくなるまでこすり続ける傾向があるので、そこはまだまだ私がコントロールしてやらねばな、などと考えたあたりで、自分がおかしなモードに入っていたことに気づき、慌てて親らしい笑顔を取り繕って、娘の頭を撫でた。
娘よ、変化を恐れるな。
キュウリを食べろ。
歯抜けの顔を堂々と晒せ。
おもしろいと思う方に全力で走れ。
かほ
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