この時期にブログを書くなんていうと、普通は一年の総括とか、新年の抱負とかそういうやつにすべきなのかもしれないけど、偶々年の瀬に生まれたモヤモヤに対する殴り書きですので、あしからず。
多様性の尊重、環境保全、平等な機会の保障、武力の放棄。
2023年が終わろうとしている今となっても、今となってこそ、私たちが抱える問題は数知れず、その見解も、目指す方向性も人により、国により、さまざまで、果たして人類はよくなっているのか、破滅へ向かっているのか、それを批評するにしたって、それは私の尺度、偏りをもって見たものにしかなり得ない。
私は、上に挙げたものを当たり前のように肯定していて、この世界は、多様性を尊重し、自然を重んじ、生まれもっての不平等さを極力是正するべきだと思っているし、どんな権力者であっても武力を行使させるべきではないと思っている。
でも、この価値観の全ての出発点になっているのは、紛れもなく自分の身に偶然訪れているこの平和を継続させたい、そういう主観によるものであるとも思っている。
自分が生まれもって抱えているものを誰にも否定されたくないから、そういう社会であってもらうと困る。自分がこの自然の恵みを享受できなくなると困るから、全体で環境保全に努めていくしかない。自分は理不尽に命を奪われたくはないから、どこかの国の誰かの命が理不尽に奪われる、そういうことを許容してしまう世界であり続けられるのは、本当に本当に、困る。そういう、ある意味で身勝手な欲望ともいえる価値観であると思う。
でも、しょうがないじゃん。私たちは協同しなければ成り立たない社会を既に構築してしまっているんだから。個人では、ゴリラにも熊にも鮫にも勝てない弱い私たちが、唯一勝る知性を生かして、相手の意思を理解し、協同することで生き残ってきたんだから。弱者同士であるにも関わらず、物に価値を見出して、権力という新たな力の概念を開発し、弱者を排除しているようで完全には排除せず、共同体として、生き延びてきたんだから。でも私はこの世界全体でいうとまあまあな弱者の立ち位置にあたると思うけれど、奴隷のように生きたくない。ある程度の自由を享受したい。弱者でも、それが許される理性的な社会になってもらわなきゃ、困るんだよ。だから、どれだけ嫌いな奴とでも、話し合って落とし所をなるべく見つけて、協同して、やっていくしかないじゃない。経済的弱者を見下すような人もいるし、それは自分の責任において生み出した状況だと見ることも確かにできるとは思うけれど、低賃金で労働している人たちの仕事がどれだけ自分の生活の大部分を支えてくれていることか。高収入だったり、人を動かす側を目指すことが人間の正道だとするならば、それは、そこから落ちこぼれた者のことは重んじない社会を容認することに他ならない。(もちろん、自分はそのようなポジションで生きていきたいという希望をもつ人がいたっていい。いれくれなきゃ困る。でも、金や権力にまるで興味のない人がいたっていいはずだ。そういう人もまた、いてくれなきゃ困る。)
自分は自分、他人は他人、のままで生きていけるほど、私たちの生活は無関係では成り立ち得ない。
だからこそ、共同体を正常に存続させていくためにも、戦争状態を生み出すような不平等や差別は、無くしていく努力をすべきなんじゃないのかなぁ。弱者を淘汰していくような方向は、人類の生き残りをかけた戦略に反している、という風にも思える。だから、結局どうしたって、「仲間」でしかない私たちは、理不尽にお互い攻撃を加え合わないように、法や規範をつくって、ある程度の平等性が担保された社会を、平和を目指していくしか、ないんじゃないかなぁ。
多分、そういう「消極的平和主義」といえるような価値観を私はもっている。
そういう私の視線でこの社会を見つめた時に、マイノリティ側の人や社会的強者に尊厳を奪われた人というのは、私にとっては一番声を聞き取らなければいけない仲間であって、わたしはいつでも、そちらの側に立たなきゃいけないんだ、と心に決めている。
でも、その一方で、マジョリティ側が、築き上げてきた文化を破壊されることを嫌悪する気持ちも、よく分かるんだよな。居心地のよい暮らしを取り上げられるという面では、必ずしもマジョリティ側が全面的にやり方を見直すべき、とも言い切れない場合があると思う。やはり、欧米はこうなのに、と言われると、いや、ここ日本やし、と思う自分もいるし、あまりに過剰な男女平等を強く訴えられると、いや、得意不得意の傾向とか、あるやん、性差は、あるやん、そこに当てはまれない人の存在は理解してるし、そこは我慢しろみたいな抑圧は、絶対したくないけどさぁ、こっちだって生理的な感覚とかはあるからそんな急に環境大きく変えるのは、ほら、厳しい面あるやん、などと言い訳したくなる時もある。
極論は美しくないし、急激な変化は持続的な営みにはならない。これは、別に根拠はない、私のただの実感だ。
本当に勝ち取りたい権利ほど、慎重に、焦らずに、じっくりと、対話していくしかないんじゃないの?やっぱり。
だから、こんなにも違う私たちがある程度納得して、正しいと思える社会でそれぞれ生きていくにはさ。噂に踊らされない。自分にとって耳障りのよい言葉以外もまずは聞いてみる。不確定なことでぎゃーぎゃー騒がない。論点ずらして個人を攻撃しない。そういう、理性的な行動をとってくしか、それしか、ないと思うんだけどなぁ。そして、権力に屈せず、法に則って、徹頭徹尾正しいことを求めることが、正道になってほしいよ。勇気を出して声を挙げた被害者が、責められることなど稀であるような社会をせめて目指したいよ。それでも、もしその加害者とされる人が無罪であった時は、権威を転覆させられるチャンスだからなどという醜い理由で攻撃されてほしくはないし、たとえその人に罪があったとしても、その人が築いてきた文化的価値やその罪に無関係な事柄が一緒くたに責められるようなことは決してしないというような、正しさを広げていきたい。
私は、道義的な正しさを目指し、求める。娘も生きていくこの社会を居場所の確保がしやすいものにしていきたいからだ。
明けましておめでとうございます。(収集がつかなくなった文章を締めるために不自然に挿入された新年のご挨拶)
かほ
書きたいこと書いていく場所
0コメント