「与えること」の罪悪感
駅前の屋内通路でじっと正座をし、目の前に小さな缶を置いているホームレスの方がいた。私は、一旦そこを通り過ぎたが、どうしても胸のモヤモヤに堪えきれず、財布を出した。500円玉を握りしめてからも数秒、ここで振り返ることは、それはそれで間違っているという予感を感じながら、それでも、と振り返り、道を引き返した。正座をした男性は、私がたったの500円を入れたその缶のカラランという軽い音を聞きながら「ありがとうございます。」とこちらが想定した以上に深々と頭を下げた。私は、どうか誰にもこの瞬間が見られていませんように、と願いながら男性と目を合わせることもなく、その場から走り去った。
私に訪れる、この居心地の悪い罪悪感は、一体なんだ。私は、彼に利他的な精神で接したいと思ったはずなのだが、彼に深々と頭を下げられていたあの時、確実に、彼と私は対等な存在ではなかった。私があのような形で500円を彼に与えたことで、彼の尊厳に大きく傷を付けることになってしまった、と後悔する側面が確かにあった。いや、彼は、それでも生きていくために、恥を忍んで缶を置いて座っているのだから、彼が助かることを行う方がより良いのではないか、とも、もちろん考えていた。
私は、温かく、困っている人を困っている時に支え合う社会を理想として常にイメージしている。その理想を実現するにあたって、手っ取り早く浮かぶ方法が「寄付」しかなく、ほんの少しではあるが、慈善団体に毎月定額が寄付されるように口座の手続きをしている。
それは、先ほど挙げたホームレスの男性にしたことと、手続きが違うだけで、結果としては同じことをしていると思う。しかし、こちらに関しては特に罪悪感などは感じず、むしろ少額で申し訳ないように感じるくらいだ。金持ち全員、もっと寄付なりなんなり、しろよ、それぐらいの気持ちがある。
ということは、金はもっと貧しい人へ、分け与えるべきだが、直接的に個人にそれを与える、という行為が相手の尊厳を損なわせることに繋がる、と私は考えているようだ。
相手の尊厳を損なわずに、支え合う社会を、利他の精神を広げていくには、どうしたらいいのだろう。そもそも、支え合う社会とは、なんなんだろう。困っている人にお金を渡す、ということを主眼においていていいのだろうか。何かその辺りに落とし穴があるような気がしてならない。
「利他」か、「支配」か
助けよう、与えようとすることが、相手の尊厳を損なっていること、と考え始めた時に一番に浮かぶのは、「24時間テレビ」だ。裏番組として「バリバラ~障害者情報バラエティ~」が、皮肉を込めて24時間テレビを真似た演出をしていたことなどからも、やはり障害をもつ方から見てもマイナスの感情が湧く側面はあるのだろうと思う。どうしても、あの健常者であるタレントが補佐をしながら障害をもつ人にとってはとても厳しいだろうと思われることを達成してもらう、そして我々は感動を与えられ、そこで支援金を募る、というやり方には障害者の尊厳を傷つけている一面があるように思える。もちろん企画に参加されている方は、やり方に賛同しているのだろうが、だからといって手放しで肯定できるものとも思えない。
チャリティそのものに問題があるわけではない。売り上げを社会的に手助けする必要がある人へ届くよう寄付すること自体は、とても利他的な仕組みであると思う。ということは、私が問題だと感じるのは、「障害者の方の頑張りに感動を与えられた我々が、支援の募金をする」というところということになる。というか、そもそもこれはチャリティに見せかけたとてつもない商業的イベントなのでは、という考えもあるが、そこはとりあえず置いておく。先ほど挙げたホームレスの方の件でも私は、「直接お金を相手に与え、相手にお礼を言われた」瞬間に罪悪感を感じた。この二つの件には「相手への哀れみをもって贈与を行う」という、共通する側面があるように感じている。24時間テレビの方は、哀れみではないだろ、と思う方が多いからこそ、世間的には受け入れられているのだと思うが、「辛いのに、大変なのに、こんなにこの人達は懸命に生きているんだ、だからお金をあげましょうよ」というシステムに、組織的な哀れみの心を私は感じてしまう。
『「利他」とは何か』の中で、政治学者の中島岳志は、志賀直哉の「小僧の神様」や、チェーホフの「かき」を例に挙げながら「贈与」と「支配」の関係を説いている。そして、「哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまうのです。」と述べている。確かにそのようなつもりはなくとも、哀れみをもって与え続けることの先に、与えられた者は与えてくれる相手には逆らいにくい、という支配関係が強まっていくことは想像に難くない。今でも、私はあの500円玉を入れた行為が間違っていたとは思わない。あの時点であの方を助ける方法が全く思いつかないからだ。ただ、社会的に広めていくべき利他の精神、それに基づいた方法とは、あのような姿勢で行われるものではないのだろうと考えている。
利己的ではない利他
「哀れみ」のない気持ちの良い贈与を私は漫画の中で見たことがある。石塚真一「BLUE GIANT SUPREME」3巻の中で、ジャズサックス奏者としてヨーロッパで活動する主人公の大は、大して面識があるわけでもないイタリア人のアルフレッドに、とても唐突に「50ユーロを貸してくれ」と頼まれる。周りの誰もが、やめておけ、と念じる中、大は「少し待ってて」と言うなり町のATMへ向かい50ユーロを引き出してアルフレッドにそれを手渡したのだった。後に、別の知り合いに「どうして貸したのか。」と問われた大が、「ぼくは…貸せたから。」と答える場面はとても印象的だ。また、「いつか、彼がぼくのライブのチケットを買ってくれたら、そんなことがあったらいいなぁって思うんだ。」と大は、続けて話す。
行為としては、ホームレスの方に私がお金を渡したことと、ほとんど変わらないように思うが、私は、大とアルフレッドは贈与を終えて尚、対等な存在だった、と感じている。どこに違いがあるかを考えてみると、まずは、「与えられる側の姿勢」、そして「与える側の作為のなさ」という二点が挙げられる。
まず、「与えられる側の姿勢」というのは、アルフレッドが「借りた金は必ず返す。」と明言しているところにある。つまり、贈与ではなく貸与であるという契約をしていることで、支配の関係からは一応脱することができているのかもしれない。実際、後にアルフレッドは旅する大を探し出して、50ユーロを返す、という行動をとるのだが、この段階では、周りの全ての人がそう思ったように、「返す」という口約束が反故にされる可能性は十分にあったはずだ。
そこが、私と大の姿勢の大きな違いではないかと思うが、私がほんの少しだけど生活に役立ててほしいと哀れみながらお金を「与えた」、逆に捉えると「自分を犠牲にし、相手を救おうとした」と若干であっても感じているのに対し、大は返ってくるとも、返ってこないとも決めつけることなくお金を「貸し」、緩やかな理想をもちながら、相手の話を聞いて、「自分ができることを当たり前にした」のだと思う。なんというか、この姿の中に利他の理想的な精神が詰まっている気がするのだが、きちんとその根源を理解することは、正直まだできていない。
「作為」を超えたところに
先ほども取り上げた書籍『「利他」とは何か』では、5人の専門家が、各々の立場から「利他」についての考えを述べていくのだが、専門分野もその活動もバラバラであるはずの5人の意見は、不思議と同じ方向性に収まっていくように感じた。それは、「自分の作為というものを超えて行った行為の中にこそ、本当の利他が生まれる」、というようなことだと私は受け取った。簡単に言うと、見返りを求めない、自分が行った行為の結果が自分の願った通りになるとは限らないことを受け入れながら行動する、というようなことに近いと思う。
アルフレッドにお金を貸した大は、貸したお金が返ってくるかもしれないし、返ってこないかもしれない未来を受け入れている。言うたら、「思わずやっちまったこと」や「そらそうするやろ、が自分の中に根付いていること」の方が、「やらない善よりやる偽善だろ」なんて言いながら作為的に行うチャリティなんかよりも、目指すべき利他の精神には近いのではないかと思う。
なんとなく目指すべき利他の精神というものが見えたところで、今の世の中を見直すと、資本を基にした作為的な「利他っぽいもの」が至る所に蔓延っているように思えてならない。人の技術や、貢献に相応しい対価を金銭で支払うということは、お互いが対等な関係にあるために必要な行為であるとは思う。ただ、それが「これだけの金を出しているのだから、これくらいの横暴は許されるべき」というように、人の尊厳に当たる部分まで金に換算するような風潮は、利他的な社会から遠ざかる大きな要因になるのではないだろうか。また、貧しさを当事者の責任にして、弱者を切り捨てるような発言をした人が批判に晒された時に「自分はあなたたちの何倍も納税していますが?」などというのも、もはやよくある話だ。資本主義の下に、支配の関係に囚われている人が増えているように感じてしまう。
利他を資本主義の下に広げていくことのよいところは、合理性を生みやすいところだと思う。資本という明確な数値があるため、どれだけ贈与した相手の支えになるかといった「効果」が計りやすい。ただ、価値が明確なだけ、そこには「これだけお金を払ったのだから、相手はこうするべき」といった作為が生まれ、結果的には利他から離れてしまう危険性がある。相手を思って行ったはずの行為が、相手にとってはありがた迷惑な結果となったり、相手の行動に対して固定した考えをもつため、他者に対して狭量になったりすることにも繋がっているのではないだろうか。
最後に同書において、美学者の伊藤亜紗が挙げていた「六つの託児所」の話を書き記しておきたい。あるイスラエルの六つの託児所では、親が子どものお迎えに来る時間に遅れることを防ぐために、遅れた場合に罰金を課すことにした。しかし結果として、遅刻する親は、罰金制度が生まれてからの方が増加したのだという。「お金を払えば別に遅れても問題はない」という考えを親の中に育んでしまった結果だと考えられている。
資本によって管理されるということが、人々から本来、自分の中に根付いていたはずの利他的な考えを奪っているとも捉えられる事例だと感じた。資本主義全部やめよ!なんていうおおよそ不可能な暴論を述べるつもりはないのだけど、金と利他は、現代においてはどうしても関わりをもたざるを得ないが、損得を数値で計りすぎることが、利他の精神を手放すことに繋がるかもしれないということは、よく覚えておきたいと思う。
「美しさ」を基礎として
でも、自分が「相手のためを思って」ということすらも、利己的な行動だとするならば、何を基に自分は行動を決定していけばいいのだろう。そんな風に悩んだ時、指針となるのが「美」なるものの存在なのかもしれない。
私は世界一のジャズサックス奏者になるという自分の理想を追い求めながら、他者に自分を曝け出すことを信条としている大や、漫画「進撃の巨人」の中で娘を殺されたにも関わらず、娘に手をかけた少女・ガビを含めて「せめて子供達はこの森(戦争を続ける人間社会)から出してやらんといかん」と、暴力を放棄し、関わる全ての子供に温かく接するブラウス夫妻の姿にこそ、私の目指す「支え合う社会」の本質が表れているように思う。
自分が起こした行動によって、相手がどう思うか、何をするかを、予測することはできない。だからこそ、相手の話を聞き、自分の心が美しいと感じていることをまずは、やってみるべきなのだろう。
つまり、この文を書く前から、私は、大切なことを既に知っていたということだ。
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