私にとって、コロナウイルスの問題が生じたことは、今となっては貴重な経験だと思えるようになっている。
それは、気が合うな、とかこの人賢いな、とか、自分が勝手に自分の「味方」のように思っていた人達と、全然意見が合わない、という経験ができたから。
逆に、この人と意見が合う日がくるとはな…ということもあった。
これまで、私は結局、人間を単純にこっち側とあっち側に分けて考えるようなところがあったのだと逆説的に実感させられた。
今は、その時よりは、本当の意味で敵も味方もない、と思うことができている。
政策として、なぜ?と疑問に思うことは多々あったけど、根本的には私は今でも自粛というものは極力避けたい、という立場にある。
経済を優先したい、というよりは、自由な活動を優先したい、という感じ。
具体的には実行再生産数を1以下に抑えられるように考えて動く、ができればいいなと思っているけど、営業自粛だとか休校だとかは、なるべく柔軟に、するにしても地域を絞って短期間で、という方針でいってほしい。
子どもが多くの友達と触れ合うことや、若者が様々な場所へ行き感性を働かせて人生を謳歌することを抑制して、主に高齢者の命を守るという構図には、私はどうにも納得がいかない。
そんな簡単な構図でないのは分かるんですけどね。別に高齢者でなくても亡くなる人もおるやろうし、医療が逼迫すれば難病患者が危険に晒されるとかね、分かった上で。
だからそんな、急な何かを求めているわけではないのだが、バランスを取りつつも、若者の活動のためには、社会として感染のリスクを負うべきだ、と思っている。
致死率や重症化率から考えての意見なので、ウイルスが変容してより危険度が増すようなことがあれば、この限りではないが。
あと、若者の感染を決して責めるべきではない。若者の感染率が高いのは、当たり前のことだ。若者が感染源となっている、というような言い方をメディアはすべきではない。
大学に行けないぐらい、他人の命を守ることに比べれば、というような意見も見たが、そういう人は、若い頃に夜な夜な友人と狭い一室で語らったり、目の前の仲間と議論を交わしながら学問に励んだことがないのだろうか、と思う。
私は、一応、若者に括られる立場でこの意見を述べるのはずるいのかも知れない、という思いも持っているが、それでも、自分が運良く生き続けて、高齢者に足を踏み入れる立場になった時、若者達が「守ろう高齢者」を掲げて活動の自粛を図れば、何を言っているんだと、そんなことをする必要はないと、言える自分でありたい。
だって自分は、出来たのだから、かけがえのない経験が、人間関係が。
人のそれを抑制してまで、私は身体の寿命を全うしたいとは思わない。
若者の一日一日は、それだけの価値があるものだと、大袈裟にいうと未来を作るものだと、私は思う。
とまぁ、そんなこんなで、人はそれぞれ、ものごとの優先順位が違う。
もし、私がこのような思いを持っていても、世論が強烈な政治の力で、例えば月単位のロックダウンを望むような時がくれば、その時に強権を振るう権力者がいれは、それは実行される。そういうもんなんだろう。
その時、私はそんなのはおかしい!と抗い、法を侵してまで戦うだろうか、と考えると、多分私は戦わない。
それは、そちらの思いも、理解ができるからだ。なるべく、こちらの思いも多少は汲み取ってもらえるように、働きかけるかもしれないけど。
何かを理解すればするほど、自分に自信がなくなっていく。
知れば知るほど、安易な行動がとれなくなる。
厄介なもんだなぁ。
私はこれまで安倍政権てのが、嫌いで、とにかく嫌いで、大企業優遇、軍拡、会見での不誠実な対応、徹底した身内びいき、とにかくとにかく、嫌いで、ありましたが、
コロナウイルスの対応を見ていて、一律10万円給付が決まった時に、それまで感じていた、彼らの強固な意思みたいなものが感じられなくなった。存続をすることだけを目的とした、世論反映機関、のように思える瞬間があった。
そして、私は、それはアリなんじゃないか、と一瞬、思うことがあった。
安倍政権より劣悪なものはない、もう他なら誰でもいい、ぐらいに思っていたが、そんなことはないな。
安倍政権よりもずっと恐ろしい政治は、存在する。それは強固な意志を持ち、且つ、扇動によって世論やメディアを動かせる言語能力と風体としての魅力を持った人物による政治だ。
私はこれまで、市民感覚で、社会をよい方に向かわせようとする統治者ならば、強権にも従えるような気がしていたが、多分それは、危ない考え方だ。
今、担がれそうなポジションにいる人間には、割とそういう人間が多いように思えて、怖い。
地味だけど、粛々と、やることだけをする、むしろ、やる必要のないことを敏感に嗅ぎ分けることを重要視する人は、どうやったらこの国で総理大臣になれるんだろうな。
そんな人が、どうやって、選挙に勝てるというのか。
私は、今回得たこの視点で、人を見ていこうと思う。
他には、何ができるだろうか。
まとめると、ポピュリズムで偏った意志を体現しようとする権力者より、割と存在感が無く、困った時の補償と、富の一極集中を粛々と是正するような、機関。
そういう政治を私は望むのかもしれないな。
とにかくもう、人をこっち側とかあっち側とかで考えるのをやめるんだ。
意見の合わない人間に出くわした時、それは、あちらの無知によるものなのか、それとも、こちらの無知によるものなのか。
私は無知だ。それだけはよーく分かった。
敵はいない。相手を敵と認識する自分がいて、初めて敵は生まれる。たとえ、一方的に攻撃をされても、私は同じ土俵には上がらない。相手と戦うのではなく、私は理想的な自分を、示すことに、全力を尽くしたいのだ。
かほ
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