居酒屋のおっちゃん
家から徒歩圏内に素晴らしい居酒屋さんがある。
和や洋というジャンルに拘らず、創作料理を楽しんでいるような小さな個人経営のお店で、よく家族3人で訪れ、のんびりと食事やお酒を楽しませてもらっている。
先日もお店で和牛のタタキに舌鼓を打っていると、60代、ひょっとすると70代?というくらいの年代の男性が一人でお店にやってきた。
入ってきた時から、なんだか嫌な予感というか、妙に胸がザワザワとする人だな…と思っていた。
声を荒げるわけではないのだが、妙に自分勝手に話をする、というか、ツッコミどころが多い、というか…。
「ビールの、大きい方。」
と注文をしたので、店員さんが中ジョッキの生ビールを持っていくと、
「あ?大きい方言うたよな?」
と言う。
(いやそれが大きい方や。)
とその場の全員が思った。(はず)
なんで自分の中の感覚でいうところの「大きいビール」が、この店でも出てくると思っているんや。
案の定、店員さんに、
「そちらが、この店では大きいものになります。」
と言われていた。
その後も、2分に一度は店員さんを呼びつけて、
「急いでるんじゃ。」
「あれ、なんだ?魚か?天ぷら?じゃあそれ作って。」
「まだか?急いでるんじゃ。」
「おーい、急いでるんじゃけど。」
「なんか、腹に溜まるもんあるか?腹に溜まるもん。え?刺身は嫌や。ようわからんのよ。なんか、腹に溜まるもの。」
などと、延々と言っている。
まとめて、ツッコミを入れさせていただきますと、
(なんでそんな急いどんのに飲みにくんねん)
(なんでそんな急いどんのに天ぷら頼むねん)
(何回言うても天ぷらそんなすぐに出てこおへんねん。聞こえへんのかこの油の跳ねる音が。この楽しい音色に耳澄ませんかい。)
(その!壁一面に書いてあるメニューの全てが!腹に溜まるものじゃい!!!!せめてなんか、米系とか、炒め物とか、なんか絞って言わんかーい!!!!)
と、まぁこんな感じですよね。
その場の全員がこう思っていたはず。(連帯責任にしたい奴)
やっと天ぷらが出てきたと思ったら、そのタイミングで電話するとか言って出て行くし、なんじゃあ、この、店と食べ物に敬意を払わんおっさんはぁーと、栃木の名酒「開華」を呷りながら心の中でぐちぐちと文句を垂れていた。
結局、ママカリの天ぷらが冷めた頃に戻ってきて、それを食べながらもぶつぶつと色々と言っていたが、本当に急いでいたのか、それ以降は結局何も頼まず、ぱぱっと会計を済ませて店を出て行こうとした。
かなり足取りが覚束ず、扉にもたれかかるように出て行く様子を、私たちだけでなく、店員さん、別席で二人で飲んでいる常連さんが固唾を飲んで見守っていた。
この時も、誰も言葉を発することは無かったが、みんなの心は一つだった。そう、
(え?まさか、運転せんやろうな?)
だった。はず。
幸い代行に連絡をとる声が外から聞こえてきて、皆でほっと息をついた。
夫はお店で、人の悪口を言ったりすることを嫌がる。確かに、お酒美味しくなくなるしな。なので、私は心に溜め続けたおっさんへのツッコミを吐き出すこともなく、まめ鯵の唐揚げを貪った。(絶品)
すると、珍しく夫が、
「…中ジョッキは、まぁ、大きいビールやんな。」
と呟いたので、すかさず私も、
「全部、『腹に溜まるもん』やんな。」
と乗っかった。
私が一番イライラしたのは、店員さんが、どういうものがいいのか、と幾ら問いかけても、わからん、よくわからん、と要領を得ない返事をしていたところで、壁に分かりやすくメニューが書いてあるんやから、なんか適当に頼めばいいのに、と思っていた。
そのような話をぽつぽつとしていると、夫は
「でも、字が読めなかったのかもしれへんからな。」
と言った。
私はハッとして、こいつ……えらい、と思った。(語彙力)
確かに、そういう環境があって、それでも生きていく術として身につけたのが、あのような態度だとしたら、それは、致し方ないよな、と思った。
「でも私はあの人嫌いだ。」
と言うと、夫は
「俺も嫌いや。」
と言った。
だけど、大丈夫か、大丈夫かこの人、と店員さんと常連さんと一緒に見守った、あの感じは、なんか良かった。
おっさんが電話で外に出ている時、
「あの人、絶対、代行で帰らせよう。」
と店員さんにこっそりと話していた常連さんは、かっこよかった。
もう一人の常連さんは、その後に話をして、とても頭のいい人だと思った。利きウイスキーの楽しさを教えてくれた。素敵な人だった。
好きと嫌いが入り混じる中で、関わり合って、ちょっと心配したり、あわよくば手を貸したりして、こういう風に、人が希薄に繋がっている空間が好きかも、と思った。
この夏は、こういう、些細なことに注目していきたいな。
大きな問題が、社会には多々あるけど、考えないといけないんだけど、だけど、状況が悪すぎて、なんかもう、馬鹿馬鹿しいな、と思ったりしている。
自分なりに、判断は、する。
今日は8月6日だ。
私は俳句を作る時などに、
「絶望は夏の中にある」という感覚を持っていることに気づく。
蝉の声
炎天
陽炎
雲の峰
自然の大きなエネルギーの中にこそ、絶望は姿を現すような気がする。
多分この感覚は、私が日本人だからこそ、持つのだろう。
武力の均衡とか、小難しいこと言う人は、現実主義者で、私は理想主義者なのかもしれないけど、世界の全員が武力の行使を望まなければ、そんな論争は必要ないんだから、そんなもんは全部おかしいんじゃねぇか、と思っている。堂々と軍縮を訴える。堂々と、核廃絶を訴えるよ。私は。
あれ、なんか、大きな話してるよー。
言ってることめちゃくちゃだよーおーい。
徒然なるままに、だからね、いいかぁ。
かほ
書きたいこと書いていく場所
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