ネトウヨとか言われちゃう人にも色々おるやろうけど、今の政権守りたい人って、帰属意識が強くて情に厚い人が多いんちゃうかなと思う、今日この頃。
仲間内の団結を重んじるというか。
曲がったことが許せないというか。
どーーしても理解できない人もおるが、優しいええ人も多いんやろうと思う。
いつも何を守ろうとしてるんやろう、と思ってた。
あんな公共の利益という観念のない政権をありとあらゆる方法で擁護する人は、あの政権の何を支持してるんかなぁと単純に不思議やった。
めちゃくちゃ優遇されてる富裕層とかなら、むしろ分かるんやけどな。そうなんかな?
今も詳しくはわからんけど、集約するなら「仲間」を守りたいんやろうなと思う。
ちゃんと牽制したり、ちゃんと差別したり、ちゃんと五月蝿い奴を制御したりすることで、自分の居場所、自分と同じ方面にいる人を守りたいんやろうなと思う。
私と、大して変わらん。
私も守りたいものがある。
でも、その括りを「国」とか「民族」とかそういうものにできるのが、それを自分の仲間の範囲と思えるのが、私はどうしてもわからん。
私が守りたいものは「自分」やし、
みんなが守りたいものも「自分」であってほしい。
私はもっと個人がてんでばらばらに動いてほしいし(それぞれの自制心の下で)、それを何者も放っておいてほしい。
もちろん犯罪が起きにくいような工夫や配慮は社会として考えなければいけないけれど。
例えば、SNSでの批判や誹謗中傷は、個人単位で抑制し合ったり、個人単位で法的な措置を講じたりするのがよくて、国が絡んで監視強化みたいなのはほんとやめてくれ、という立場。
どれほどそこが下衆な表現に溢れていようとも。
ある個人をとてつもなく傷つけるリスクを負うものだと解っていても。
自分が監視体制の中で「駄目なこと」を言う可能性は大いにあるから。
自分が国にとって「排除すべきこと」を言う可能性は大いにあるから。
そういう歴史はあったのだし、そういう社会は現時点でもあるのだし。
私は警戒する。楽観視はできない。
私は国とかそんな括りはどうでもよくて「束ねてこよう」とするものに抗いたい。
そうすると仲間は「庶民」てことになって、敵は「権力者」になってしまうんよなぁ。
トランプも習近平もプーチンも嫌いや。
トルドーも文在寅もメルケルも権力を持つことを望んだ人や。
信用の度合いはあれど。
要注意人物や。
反権威主義っていうんか?
でも、最近ん?てなるのが、それって私が望んでるような「政治主導の手厚い福祉制度」と矛盾してるんかなぁ、ということ。
んんんんー。
でも、強大な権力の行使を否定したい気持ちと、福祉が手厚く受けられるシステムを望むことは、私の中では矛盾しないんやけどなぁ。
おかしいんやろうか?
政治の力を求めながら、政治の権威を否定する。というのは。
でも、人間が生活していく上で、必ずしも必要なものっていうのはだいたい似通っていて、食料だとか教育だとか医療だとか介護だとか。それを得るに困る人がなるべく出ないようなシステムを税金を用いて政治が作る。それ以上の個人の自由や権利は決して縛らない。(表現の自由だとか、知る権利だとか)そういうのは、無理か?そういうのが、いいんだが、私は。政治の力は増やすか減らすか、どっちかなのだろうか。要所要所うまくやりたいから、要所要所うまくやれる人、権力というものの限定性を弁えてる人にトップに立ってほしい…。
でも、なんとなく、反対の立場に立つ人との自分の違いが分かってきたような気がするし、反対の立場に立つ人は絶対にいた方がいいな、と思えるようになってきた、かな。
例えば、もっとSNSでの監視を強化した方がいい!て言う人の意見も聞いてみたい。
絶対私が間違ってるところ、というか見えてないところがあるから。
0か100かじゃなくね、大きな方向性と、小さな軌道修正を繰り返さないといけない。
私には、絶対に見えていないことがある。
かほ
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