世間はなかなか厳しい状況ではあるが、
インターネットという文明の利器に助けられて孤独を感じることもなく
表向き平々凡々と暮らしている。
優しい友人が疲弊している様子も見えるが、
しかし私の友人はその優しさを失わず、周りを気遣い、声を荒げることもなく、前向きに次の一手を検討している。
どうにも今の状況は、負担を強いられる配分が、職業によって、あまりにも偏っていて、私も友人を見習って前を向かねばとは思うのだが、すぐに立ち止まっては、うだうだと、ねちねちと、この不平等な世を恨んでしまう。
自分がどんどんと暴論を支持しているような気がして、よくない。
しかもそれを吐き出したいという欲望に駆られる。
絶対によくない。
こっそりとひっそりと、
また、明日という日が真っ当に生きられるように、言葉が厳しくならないように、今考えていることをまとめたい。
本当に思いつきで書いているので、多分まとまらない。まあいい。
大学生の時、尊敬する友人に
「トロッコを運転していて、ブレーキが効かない。前方で5人の人が作業をしている。レバーを引けば、1人の人が作業をしている方に進路を切り替えることができる。かほならどうする?」
と聞かれたことがあった。
考えた末に、
「レバーは引けない。5人の人が轢かれてしまうけど、自分の意思で人を殺すことはできない。」
と、答えた、と思う。
いわゆるトロッコ問題、と言われるやつ。
そう答える人は少数なんだよ、と言われて驚いたので、よく覚えている。
レバーを引くことが許されると思う人が半数以上もいることに、少し首筋がスッとした。
後から少し調べると、トロッコ問題には、他にも設問があって、
『同じようにトロッコが暴走していて、前方に5人の人がいる。自分は橋の上にいて、横にいる人をトロッコの前に突き落とせばトロッコが止まり、5人を助けることができる。突き落とすべきか。』
というものだ。これには、多くの人が突き落とすことは許されないと、感じるそうだ。
なんで突然このことを思い出すのか。
なんとなく、現状が、この矛盾と似ているような気がするからだと思う。
レバーを引くことは許されるが
突き落とすことは許されない。
どちらにしても、人は死ぬのに。
どれだけ、自分が「責任」の傍にいるのか。
その惨状を起こしたという手応えを持つのか。
それによって、結果は同じでも、人は自分を許せたり許せなかったりする。
曖昧な生き物。
今は、新型コロナウイルスによる死だけが、死としてカウントされ、それ以外の辛さや苦しさや死は、やむを得ないものとして、容認されている、ように感じる。
しょうがないのかな。
しょうがないのかなぁ。
感染爆発をしないように、自粛する。
わかってるよ、するよ、してるよ。
同時に、医療が圧迫されようと、高齢者の数%が亡くなろうと、だって、それは、今の医学では手に負えない病気だから…と、思う最低な私がいる。
新型コロナウイルスにかかっても、多分私は死なない。(死ぬかもしれないけど)
多分そう思っている人もいると思うのだけど、いつまで全員で監視をし合いながら閉じこもるのだろう。
私はもう、来月には様子を見て、少しずつ活動をしなければ、生を謳歌せねば、と思っている。思ってしまっている。
で、こういう私のような奴は、自分勝手。そういう奴が媒体になって、他人を殺していいのかよ、医療を圧迫して、病人に手が回らなくなっていいのかよ。
てことよね。
よくないよ。
よくないっていうか、望まないよそんなこと。
でも、でもでもでも
失業して、補償もいつもらえるのかわからなくて、未来が見えなくて、自殺していく命だって。
同じ命で。
その責任の末端を、私たち全員負っている。
なんだろう。なんだろう。
どっちが正しいとかっていうか、この、見過ごされ感が、あまりに、見過ごされて、詮無いことのように、消えていく命が、
東京都本日の感染者37人の裏で数えられることもなく消えていく命が辛くて、不平等で、許せなくて。何もできなくて。
別に報道されようがされまいが、死んだら一緒じゃ、と苦しみ死んだ人は、言うかもしれないけど。
本当に正しく恐れているか。
あまりに強大なものに仕立て上げて、怯えるあまり、自分の責任が感じられないところで苦しんでいる人を、あまりに蔑ろにしていないか。
とりあえず、他人が自分で考えて、配慮した上での外出すらも、許さず、攻撃を加えて、それを全体の正義と疑わない人は、落ち着いた時に、京都の街並みが壊滅していても、愛した店が全て消えていても、決して不満を持つことのないように、ね、と思う。
遠くの責任を放棄しないで、頑張りたい。
助け合いたい。リスクを負ってでも。
リスクを分け合いたい。
誰かが、背負いすぎて潰されないように。
買い占めないことも、自粛も、配慮した外出も、経済活動も、リスクを分け合う行為だよ。
臨機応変に、頭ごなしに否定しないで、その都度、判断したいな。
ここまで書いたことは、私の認識の甘さで、全部が間違っている可能性もある。
というか、誰かにとっては、間違いでしかないと思う。
最後に、バズマザーズのボーカルの山田亮一さんがいつかのライブで
「俺たちはいま、こうして舞台に立ってて、主張をするのにとても有利な立場に立っている。」
と言ってから、MCを始められたことが、とても心に残っている。
有利な立場。
不利な立場。
山田さんは、今は舞台の下にいるお客さんもマイクを握って舞台に立つことがあればいいと、思ってくれていたのではないかな。
有利な立場で主張することが当たり前ではなくて、たまたま、その場を与えられる人と与えられない人がいて、死ぬまで一度もその場を与えられなかった人が、いたとして、一体何が言いたかっただろう。
舞台の上でマイクを握って、何を叫びたかっただろうな。
SNSは確かに嫌なところも多々あるのだけど、これまで、決して有利な立場に立てなかった人の声が届いてくることもあるから、やはり、私は大切だと思う。
混沌としているのは、割と好きだし。
それでこそ、と思うし。
さあ明日は何ができるだろうな。
やっぱり、まとまらなかったな。
もし読んでくれた人がいるなら、ありがたい。
聞いてくれてありがとう。
かほ
書きたいこと書いていく場所
0コメント