いじめる者にかける言葉を探す春

私も教師の端くれなので、もちろんいじめを憎む心は強い。

いじめは、喧嘩とは違う。
反抗をしない、もしくはできない状態に追い込んだ相手をわざわざ傷つけ、踏みにじった上、その事実を隠し、全ての重荷を相手に背負わせ、その責任をとることもなく、笑って済ませる。

このような理不尽を憎まずして教師という仕事が全うできるはずもない。


これから書くことは、ただ私が経験からそう感じていることで、根拠だとかそういうものは何もない。

私がこれからいじめに対峙するとき、持っていたいと思う、視点のようなものだ。


私の周りにも、過去にいじめを受けたことがある、と話してくれた人が数人いる。
芸能人でも、いじめを受けた経験を語ってくれている人がいる。

とても優しくて、とても賢い人が多いな、という印象がある。

そういう辛い経験を語ってくれる時でさえ、「きっと自分の、こういうところが気に食わなかったんだろうね。」と苦笑いしながら話してくれるような、大きな人。


私自身、これはいじめだ、と認識するようなことをされた経験はないものの、その種になるような、ひやりとする嘲笑や、同じように笑わなければいけない、と感じる同調圧力のようなものを感じたことはある。


いじめられた人、というのは、そういう時、どうしても馬鹿なことが言えなかったんじゃないかなぁ、と思う。

同調圧力に屈して、わざと馬鹿になる。
多分それが、淀んだ空気の漂う教室で巧く生き抜く術であって、そういうことが、どうしても出来ない人、だったんじゃないかなぁ、と思う。


これは大体の大人が、いや子どもでも、知っていることかと思うが、いじめは、間違いなく弱い人間のすることだ。

いじめられる側の人柄だとか、容姿だとか、いじめられる方にも責任があるだのないだのは、全く取り沙汰される必要がない。
私は優しく賢い人が多いと感じているが、それすら、どうでもよいことだ。
例え、100人が100人、好ましくないと感じる人間であろうとも、いじめられ人権を奪われることは許されないのだから。

問題にするべきは、議論に及ぶべきは、いつでも、いじめる人間の弱さだ。

ひどいいじめが起きた時、これは犯罪だと、法で裁かれるべきだと、大人の目線で多くの人が言う。
無理もない。
いじめられた側の視点に立てば、その通りだと思う。

私は、教師というのは、いじめが起き、これはもはや犯罪だと、世間が言う前に、

いじめる者に自分の心の弱さを突き付け、
自分は犯罪を犯したと言えるほど、許されないことをしたと、自覚させる機会を持つ、最たる存在なのではないか、と思う。

また、人の足を引っ張ることで、得られるような快感は、自分の弱さの証であって、
あなたたちは、もっと美しい空気を吸うべきだと、正義感や愛情の価値を、前もって提示できる立場にいるのではないかと。

子どもは綺麗事が嫌いだ。
でもそれは、子どもが大人の嘘を見破る力があるからこそ、真実の正義と、ただの綺麗事を見極めているのだと思う。

私は真実の正義を提示しなければならない、ということになる。

それほど、立派な人間にはなれないだろうが、いじめられ辛い思いをしている子どもが、「世の中捨てたもんじゃない」と思えるまで、話を聴くぐらいのことは、できるようになりたい。

いじめた者が「ここに留まっていてはいけない」と感じられるぐらいは、美しくありたい。

私に辛い経験を話してくれる、優しい友人に、少しでも報いたい。
自分に何が言えるのか、あの時、何が言えたのか、今も考えている。





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