自分を語れ

たまに見かける「自分語り乙。」というやつ。

なに、この気持ち悪い日本語、と思っていた。

自分を語って何がいかんのや、むしろ我々に自分以外の何が語れるのや、と腹が立つような感じ。

自虐的に使うこともあるよね「自分語りすまん」みたいな。

なんでかなぁ。

と、不思議に思い、もう少し用法を調べていると、なんとなくわかってきたことがある。

それは、「自分語り乙」と誰かに言われる場合、人の話に耳を貸さずに、関係ありそうで実は関係の無い話を無理やりねじ込んでいる場合が多い、ということ。

確かに、いるなぁそういう人。
わざわざ相手に質問をして、話し合いをしているようなスタンスをとりながら、相手の返答がどうであれ、自分が話したい方向へぐーんと舵を切る人。

嫌だよね、そういう人。
あ、この人私を見てない、自分しか見てない、というか誰かに武勇伝を話して感心されている(と思っている)自分しか見てない、今すぐ帰りたい、て思うよね。 

でも、それは、その人が一緒にいたくない人なだけでさ、自分語りが駄目なわけじゃないよね。

私が言いたいのは、自分のことを語る時に「自分語りしていい?ごめんね」って言わないといけないような空気が充満するのはキツいな、ということ。

「本来、自分の中で完結しないといけないような、自分にしか関わらない話を、わざわざ話して聞かせてしまって、ごめんね。」

ということでしょう?
いやぁ、キツいなぁ。
諸々、自己責任だぞ~とかいう人の煽りを受けているのかな。

私はお酒好きだけど、実は一人で食事をする時はほとんど飲まない。ほとんど?あんまり?えー…そんなには、飲まない。(まぁまぁ飲んでるやつ)

やはり酒は人と話しながら飲むのが一番美味しい。

お酒は人に弛みをもたらす。
人は弛むと普段話さないような自分のことを語り始める(人もいる)。

情けないことや恥ずかしいこと、怒り、自分の中で収めていてもいいのに、対峙する人がそれらを吐露してくれた時、私は、今日は最高にいい夜だな、としみじみ思う。

それが理解できても、できなくても、よく話してくれたなぁ、私たちここまで、ベストを尽くしてきたよね、と肩を組んでいるような気持ちになるのだ。

結婚しようが子どもがいようが、
何せ人は結局孤独で、
自分の心を常に一人でコントロールしている。

他人の心は分かるようで結局分かるわけもなく、推し測ったり、勝手に同情したりしながら、純然たる孤独をそれぞれが歩んでいる。

あれでよかったのだろうか。
こうしておけばよかった。
それでも、私は間違っていない。

何かと戦い、勝ちも負けもわからぬままに、とにもかくにも、今日一日を乗り越えている。

それを人に話すこと以外に、各々の健闘を、自らの健闘を称える術が、あるのだろうか。

「そうかぁ、それは辛かったなぁ。」

そう言われて初めて自分が辛かったことに気がついたりする。

人が泣いてくれて初めて自分を許せるような気持ちが生まれたりする。

生きているなら、そういう喜びがなるべく多く生まれるような、誰かがこぼれ落ちていかない社会に生きていたいよなぁ。

私の悪い癖、どんどん話が大きくなるところ。

というわけで、私の周りの方たち、どんどん自分を語っておくれ。
肩を組んで笑っているような、いい時間を一緒に過ごしましょう。


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