私はセダムになりたい。


家庭菜園が難しい。

散歩の度に目につく、他人の庭に咲いた美しい薔薇、瑞々しい茄子、ピーマン、生き生きと蔓を伸ばす木苺…

羨ましい。気づけば睨み付けているほどに。
隣の芝が青い。隣の薔薇が美しい。隣の茄子が旨そう。

しかもこれは隣のものだから良く見えるとかそういうことではなく、単なる栽培技術の問題であり、紛れもない事実である。


植物を育てるのは楽しい。
自分のやった水を植物が吸い上げ、蕾が開き、その花の鮮やかさをある朝、目の当たりにした時などは、私のどん底の視力さえも多少上がったのではないかと錯覚するような、世界のピントが合ったような、そんな感じをうける。胸に迫るものがある。

しかしこの感動に至れることはそう多くない。
本当に難しい。
枯れる。枯れるのだ。めちゃくちゃに枯れる。

しかも、ある期間を元気に共に過ごし、徐々に弱り、いずれ枯れていく。そういうことではない。

買ったその日からみるみると萎れる。
植え替えた途端に元気を失う。
気づけば葉が落ち、みすぼらしい姿になっている。

そんな具合になることが多々ある。

書いてて、今、非常に、虚しい。


原因はわかっている。いやわかっていなかった。ここまできてさすがにわかってきた。

私は植物を育てるのが好きだ。手をかけ、私の手で、花を咲かせ、実を成らせたい。

手をかけ、手をかけ、育てたい、咲かせたい、成らせたい………





手ぇかけすぎなんじゃぁぁぁい!!!!!(by.植物たち)


ということらしいなぁ、どうやら。

肥料…え、こんだけでええの?
もう、もうちょっとあげた方がよくないか?多分絶対、うん。(バラバラバラ)→枯れる

水…2週間に1回?えぇ~…もっとあげたい。手をかけたい。あげたい。あげたい。あげたれ。えい。→根腐れ

遮光…か…光…を、遮る…植物の成長には必須ともいえる日光を…遮る…?ん?当たるに越したこと、なくない?多分絶対、うん。→日焼け

最後のやつはむしろ面倒くさがり出てしまっているけど、おおよそこんな感じで、必要とされる栄養をなんとなくいつも「やや多め」に与えてしまう。

植物からすると、私はいわゆるお節介ババアというやつなんだろう、と思う。


「あ、もう、お腹いっぱいです…ありがとうございます…もう、このへんで…」

「なにいうてんのあんた!若いのに!もっと食べれるやろ!あんたのためにおばちゃんそこの店のいっちゃん大きいどら焼き買うてきたのに!はよ食べな傷んでしまうやんか!遠慮せんと!ほれ!ほれほれ!」


という、風に、見えているのだろう、スコップを握り大量の肥料を投入してくる私の姿が。

辛い。

しかしこんなお節介ババアの私が、全く手入れをせず、ただただ放置している植物がある。レンガの隙間の川砂に植え込んだ多肉植物「セダム」である。
こいつは、お節介ババアの私にとって、なんだろう、「関わらないでください」オーラをばんばんに出してくる近所の学生(文学部)、とでもいうか…。まめにスーパーで買い物とかしてて、あ、ちゃんと自炊できるタイプの人なのね、大丈夫なのね、いつも顔色もいいしね、という距離感、というか。


レンガの隙間の川砂に植えると見栄えがよい、という情報だけで購入したセダム。
川砂だけでちゃんと根を張るんか?という私の心配をよそにぐんぐんと大きくなるセダム。
大雨が続こうが、真夏日の日光に照らされようが、顔色(顔色?)一つ変えず上へ伸びていくセダム。

上からレンガの隙間を埋めるために、砂をぶっかけようが、数日後には顔を出し、また一定の速度で大きくなる。
最初は関わりを持てないことから距離を感じていたのだが、徐々に、その生命力に感嘆し、枯れてしまう植物たちの貧弱さ(いや私が悪いんやけど)と比べて、なんと逞しく、それ
でいて慎ましく、美しいのだろう、と思うに至った。

最近では毎日自分の庭のレンガの前にしゃがみこみ、しばらく様子を観察している。
端から見るとレンガを見つめる不審者である。
ご近所に心配をされないように気をつけようと思う。

私は、セダムになりたい。
誰に見られずとも、根を張り、上を向き、慎ましく、一定の速度で大きくなるセダムに!



いやでもセダムになる前にとりあえず植物をうまく育てられるようになりたい。

白菜に青虫がついてしまった…
お酢かけてきます…。



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