森絵都の小説「カザアナ」を読んだ。
基本的には現代日本を描いている本作ではあるが、昨今、私自身もところどころ感じている歪んだ愛国心、歪んではないか、見せかけの愛国心?みたいなもの、そしてそれを国そのものが国民に求めてくることの危険性、みたいなものが、これでもか、これなら分かるか、この気持ち悪さが、みたいな作者の思いによって強調されまくった世界が表されていた。
日本らしいものを「ジャポい」と表現しては賞賛し、欧米らしさを「オバシー」と評しては非難する。景観条例は法律に格上げされ、都市によって、日本らしさを求めるランクが付けられ、自宅までが厳しくその対象となる。その価値観が教育にまで浸透し、日本的なものを最上とする価値観から行われる頭髪検査、相撲大会、その他諸々…。ダンスホールはオバシーなものとして規制され、ダンスそのものを禁止するような議論にまで発展する。無論、人々の暮らしは、その価値観から外れたものになっていないか、数多くのカメラに監視されている。
いやいや、まさかまさか、という、まぁ子どもたちにこういう異様さを伝えたいという気持ちがあってのこと、という強調ぶりではあるが、いやしかしよく考えれば、現実社会と地続きではある、という世界観。
そんな中「カザアナ」と過去に呼ばれた、自然と通じることのできる特殊な力をもつ者が現れる。天気をよめる者、虫と話せる者、石の記憶が見られる者、鳥を操れる者。でも、そんな特殊な力をもつ者を中心とした話であるにもかかわらず、この物語は「機械文明や自国第一主義、ましてや監視社会など絶対駄目、自然に従うことこそが正義」というような強いメッセージを伝えてこない。というか、そのメッセージをカザアナ達によって体現させようとしない。
カザアナ達は造園業として「枯れない庭」を実直に作り続ける。石に道を尋ねたり、虫に人探しを協力してもらったり、蝶にダンスを踊ってもらったり。特殊な力は、体制を変化させるようなことには全く繋がらず、ほんの些細なことにしか用いられない。その力は、30歳になると同時に失われるということが分かっていても、本人達は、特段不便をすることも無さそうに淡々としている。「空読」のテルに至っては、天気がいいと元気になって、天気が悪いと影が薄くなる、という、本当にそれだけの性質しか描かれていない。天気を操って天変地異を起こして、人間社会に罰を与えるとか、普通そんなんちゃうの?というようなファンタジーの暴力性を全く行使しないキャラクターであった。
だけど、空が晴れると朗らかに笑って、空が曇ると表情が翳る、そういう人物がいたらほっとするだろうなぁ、とは思う。それだけだけど。
人間達の作り出した問題を、解決できるとしたら、それは人間の手によってでしかあり得ない、ということだろうか。自然が人間達の考えを評価したり、罰を下したりすることなんてないし、ましてや、自然が意思をもって助けてくれることなどあり得るわけもない。自然と自分たちの関係など考えるまでもなく、私たちは自然の一部だ。そして一人の人間にできることなど、世界にとってはほんの些細なことだ。この物語は、そんな中でこの八方塞がりな世界を生き抜くには?自然と共に生きるとはどういうことなのか?という問題提起そのものなのかもしれない。
石読のかおるは、「この力が失われても、気のいい石か、悪い石かくらい判ると思う。」と言っていた。彼らにとって枯れない庭を作るということは、私たちがほんの少し、隣人の気持ちを考えて行動するようなものなんだろう。監視され、自由を制限される世の中になっても、それに怒りながら、問題を突破する方法を考え、それがどんなに突拍子のない考えであっても堂々と勇気をもって実行できる入谷家の生き生きとした姿にもエネルギーをもらった。
今感じている違和感が繋がっていく先を、感覚を研ぎ澄まして感じていきたいと思った。
特に、教育の現場にかんして。
物語の中で、AI家庭教師というものが一般に普及し、子ども達は学校で抱える問題をそれぞれのAI家庭教師に相談する。AIは膨大なデータから、次の行動の最善手を子どもに伝え、子どもはその通りに行動していく。この描写にかんしては、全く行き過ぎたものとは思えなかった。
既にタブレットが導入される中で、子ども達はよく、「〇〇が分からないので調べてもいいですか?」と問うてくる。一見、勉強熱心な思考のように思えるが、その使い方は徐々に広範囲に広がって行き、最近では図工の時間に「〇〇の描き方が分からないので、イラストを調べていいですか。」と聞きにくる子が爆発的に増えた。「頭の中にある〇〇を描けばいいんだ」と伝えても、どうしてもその確証のなさ、答えのない心許なさに子ども達は耐えられないようである。
そうして、誰かの描いたものを真似したものを作品に取り入れて、安心感を得て、小綺麗なものを作り上げて、そこにどれほどの価値があるのだろう、とふと考える。
逆に正しくない造形の中にある歪みの魅力、現実にはあり得ない色彩の渦に見出すことができるエネルギーなどの芸術的価値を、子ども達から奪い取ってしまうのではないかと危惧している。
きっと機械に頼るべきではない場面というのは、思っている以上に多い。馬鹿にされても、効率が悪いと蔑まれても、自分の感覚を生かしたい。
「生きて」いたいし、「活きて」いたいのだ。
かほ
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