同棲中のアキが、頑張ることを辞めてしまった。
具体的に何を辞めたのかと問われると難しい。4年前に親から受け継いだ花屋「たわむれ」の営業は細々と続けているし、きちんと風呂にも入るし、家事も私以上に面倒くさがらずにこなしてくれている。
それでもまだ頑張りが足りないと言いたいわけではない。どうにも説明が難しいが、1年ほど前まで、アキはもっともっと、「頑張って」いたんだ。それだけは間違いない。
例えば、私がアキとお付き合いを始めた頃、私が休日に手伝いがてら「たわむれ」に赴くと、彼は卒業式のステージ用の投げ入れ花をせっせと生けていた。メインの百合が大きな口を開けながらこちらを威圧してくる。アキが生けると花たちはなぜか自信に満ち溢れ、どんな花もたっぷりと愛情を注がれ育った令嬢のごとく得意げに背筋を伸ばしているように思われたものだ。アキは何周も花瓶の周りをぐるぐると回りながら、長い時間をかけて花たちの調和を探していた。彼をそうさせたものは情熱と呼ばれるものだったと思うし、彼の納得がいくまで木製の丸いスツールに浅く腰掛けてそれを静かに眺めていた私は彼と同じ夢を見ているといえたかもしれない。
例えば、店に挙動不審な若い男性客がやって来た時、「女性が喜びそうな花束を。」と目も合わせずにぼそぼそと注文する男性の様子に何かを察したアキは、丁寧にいくつもの質問をその客に投げかけた。「お相手は、どんな色がお好きでしょうか?」「お持ち歩きの時間は長くなりますか?」「どんなシチュエーションでお渡しになるのか、あの、もしよければ…」どのような表情で待てばよいのか、決めかねているようだったその客は、アキの質問にたどたどしく答えながら、少しずつアキの近くににじり寄り、最後には二人一緒になって、ガラスケースの中の花々を真剣に眺めながら、使用する花の選別をしていた。
アキにとって他人のために最善を尽くすことは当たり前のことのようだったし、花屋としての矜持のようなものを、私は一度たりとも彼の口から聞いたことはないが、それが彼の中に根付いていることを疑ったことはなかった。
あれ?と最初に思ったのはいつだったろうか。アキが花を運搬しに行ったその日に卒業式を迎える小学校から、ほんの数十分で帰ってきた時だろうか。いつものアキなら、体育館の隅の隅から卒業式の様子をそっと見守り、自分の生けた花たちが式に興を添える様を目に焼き付けてから帰ってきたものだった。それとも、スーツを着込んで「27本の赤い薔薇を」と注文を入れてきた男性客に質問の一つも投げかけず、「一万五千円くらいになっちゃいますけど、よろしいですか?」とだけ、少し不安げに問いかけた時だろうか。
アキが頑張らなくなってから、妙なことに私も頑張ることが難しくなってきてしまった。というよりも、頑張るということがどういうことなのか、よく分からなくなってしまった。
私にとって「頑張る」ということは、その人以上にその人の望みが叶うことを願って最善を尽くすアキの姿そのものだったというのに。
十月も終わりを告げる頃になると、朝目覚めた瞬間から、耳がひんやりと冷えて布団の外側の世界の厳しさを感じとれるようになる。なんとか寝床から這い出すと、二階のベランダから頂上にうっすらと白い雪を纏った赤城山が見えた。そろそろ、ワカサギ釣りが解禁されているかもしれない。モヤモヤとしたものを長く抱えてきた体が、山の上のキリッとした空気を恋しがっているようだった。
早起きをして階下でゲームをしているアキに
「ねー、今日赤城山にドライブ行こうよー」と呼びかけると、少し間が空いてから「んー別にいいけどー」と返事があった。
赤城山の中腹には、散策しやすい大沼があり、池の周りにはアヒルやら車やら、子どもを喜ばせようと飾り立てた足漕ぎボートが並んでいる。子どもがいるわけでもないのに、私たちはよくボートに乗った。真剣に二人で足を回転させて池の中央に近づいて行き、ふと漕ぐのを止めた時のポツンと取り残されたような心細さが、何故だか私は嫌いではなかった。ボートを管理しているお爺さんに「乗ったことある?」と聞かれ、「はい、あります」とはきはき返事をする。実は何度も乗ったことがある、ということをこの人には伝えたことがあるのだが、結局いつも、時間制限や乗り方、漕ぎ方、降り方など懇切丁寧に説明され、じゃあなぜ乗ったことがあるのかを聞くんだろう、と毎回ぼんやりと思っていた。今回も結局、三十分が過ぎる前にはこの船着場に戻ってくることまできちんと説明され、どぎついピンク色のアヒルボートに乗り込んだ。
二人で漕ぐと、案外アヒルはスピード感をもって進む。左右に広がる紅葉がぐんぐんと後方に流れていく。スッと大きく息を吸うと冷たい空気が肺に流れ込み、私の頭は少し軽さを取り戻した。
「なんかさ、さいっきん、さ、いや、もう、最近、でもないかっ。アキ、変だね。花屋、やんなっちゃった?」
私はアヒルボートを動かすことに集中している片手間の会話を装って、本当に知りたかったことを口にした。「え?そう?…いや別に、辞めたいとかは、全然思ってない、よ。」アキも特に視線を動かすこともなく、平然と答えたが、続けて「…どこが変?」と言う時だけ、一瞬漕ぐのを止めた。
「なんか、なんだろう、分かんないけどさ、アキはお客さんのために、花束、作るのとかさ、はぁ、しんどくなってきた、えっとー、懸命、そう、懸命だったよ、ずっと。でも最近はさ、なんか、そういう感じがしない。なんかやだ」
アキはいつのまにか完全に漕ぐことを止めてしまっていて、ペダルがぐんと重みを増す。苦しくなってきて、私も漕ぐことを止めると、パチャ、とボートが池を割っていく音がやけに鮮明に響いた。
「…すごいなぁーカコ、分かるんだなぁ、そうなんだよ、俺、だめなんだよなぁ。」
池の中央で、二人ぼっちになる。
取り残されたような寂しさを感じるほどに自分達の存在感は、大きくなっていくような気がする。
「一年くらい前にさ、家の近所でストーカーが女の人を刺しちゃった事件あったろ。覚えてる?」
もちろん覚えている。近所ではかなり大きな話題になっていた。
「亡くならなくて、よかったって話したよね、うちでも。」
「そう、ほんと、亡くならなくて、よかった…。実はさ、あの時言わなかったんだけど、あの事件の犯人、あの日うちの店に来たんだよ。」
「えぇ!?」驚いて頭をボートの壁にぶつけてしまった。アヒルがぐらりと揺らぐ。
「恋人にプロポーズするんだって言ってさ、俺めちゃくちゃ気合い入れて、これでどうだ!ってかんじでさ、作ったんだよ、花束。そしたらその犯人『彼女、絶対喜んでくれます。ありがとう』って、笑顔でさ。なぁにが、お前、ストーカーの分際でって、テレビ観ながら、すげぇ腹立ったよ。泣きそうだった。チラッと現場の映像、流れて、ボロボロになった花束、落ちてた。俺が作った、花束。」
アキは両手で口を覆うようにして、フウーと長く息を吐いた。目を瞑り、眉を歪め、苦しそうで、私は無意識に背をさすっていた。
「なんかその時に、全く論理的じゃないの分かってるんだけど、俺も、俺が、加担したような気になって、いや、それはまじで絶対間違ってるんだよ、わかってるのまじで。だけど、なんか本当、頑張っちゃったから。犯人の話一生懸命聞いて、この人の好きな人を喜ばせようって、『懸命』ってやつ、だったからさ。…あぁ、他人のために頑張ることって、こんな、すごい間違った結果を引き起こす可能性があるんだなぁー、て思っちゃったよ。薔薇がいっぱい入った、豪華な花束見た時、被害者の人、すっげぇ、怖かっただろうなぁって。その人のために頑張ることで、その人の人生に、ほんのちょっと『参加』することになっちゃうんだなって。それが、なんか、怖くなっちゃった。だから、『俺が』いいと思うことを、勝手に誰かのためだって決めつけないようにしようって、その人がいいと思うことを、その人に決めてもらうしかないな、って、なんか、そんな感じ。ごめんね、なんか、言いにくくって。カコ心配しぃだし。あと、それだけが原因じゃない気もするし。やっぱり経営のこと考えるとな、効率とか、割り切ることとかも必要だよなぁってさ」
そう言って力なく笑うアキが悔しかった。私がなんにも知らなかったことが、悔しかった。私は、話を聞きながらとっくに泣きそうになってたけど、気を抜けば多分、余裕で泣けたけど、それは違うよな、と思って、目の下にぐっと力を込めて耐えていた。
ピピピピピピピピ
その時、残り十分の時に鳴るようにセットしていたアラームが鳴った。ハッと顔を上げると辺りにはいつの間にか濃い霧が立ち込めていて、ほんの少し先さえも見えず白い景色が一面に広がっていた。
「えっ、えっやばっ、どっち、来た方どっち!?」私が慌てふためきながらペダルに足をかけると、待て待て、と大きな声をあげてアキがスマホを取り出した。
「うん、GPSで方角は分かるから、大丈夫。とにかくあっちへ進んでいこう。」
二人とも冷たい汗を背中に感じながら、息を合わせてボートを真っ直ぐ進ませることに苦心した。進んでも進んでも変わらぬ白の世界に私はどんどんと不安になり、少しずつ焦りからペダルを漕ぐスピードを速めてしまう。
「ちょ、カコ、大丈夫だから、落ち着いて、ゆっくり」
「落ち着いてられないよ!!怖いし!!」
アキがしょうがなく私のスピードに合わせてくれる。二人でジャコジャコと音を立てながら息を切らしてペダルを漕ぎ続けた。
ふいに体の奥でミキサーにかけられたような感情が溢れてきて、私は「あーーー!!」と思い切り叫んだ。アキは「えー怖、えへへへへ」と本気で少し怖がりながら、笑っている。怖い時になぜか笑ってしまうのは、よく分かるような気がした。怖がらせているのは自分だけど。
私は溢れるままに、叫んで、漕いで、喚き散らした。体の奥の方で何かがずっと叫んでいて、それをなんとか言葉として吐き出さないと、熱くて燃えてしまいそうだった。
「クソ野郎ー!!!アキの優しさを踏み躙りやがって!!死ねー!!!でも、でも、アキなんも悪くないじゃん!!そんなんで、自分の、自分を、簡単に捨ててんじゃねぇー!!もしも、もしも、店に来たのが………ETだったらどうなんだよ!?星に帰る前に地球の思い出ーET欲しいよーって言われたらどうする!?何持って帰ったって一緒だよ!!異星人からしたら、アキが適当に選んだ花も、懸命に選んだ花も、知らん星の知らん花じゃん!!でも、アキは、アキは、私の好きなアキはそれでも悩むんだよ!!!どれが一番、ETの思い出に残るかなって、ETの家族はどんな花を美しいと思ってくれるのかなって、話して、話せたっけ!?知らんけど、なんとか、一緒に考えてあげるのが、アキでしょ!?ETは結局、花の美しさとか分からんかもしんないけど、一生懸命考えてくれたアキの、自分の人生にちょっとだけ参加してくれたアキの姿だけは、ずっと忘れずに覚えてるかもしれないじゃん!!!少なくとも私は!!!」
視界の果てに何かがちらついた。旗だ。誰かが旗を振っている。気づけば霧は大分薄くなっていて、船着場の筏に立つお爺さんが赤い旗を振っているのが断片的に見えた。
「あーー!!よかったぁーーーー!!怖かったーー!!!」
私はアキにしがみ付いた。アキは私の強張った腕を優しくさすってくれた。
「カコ、テンパりすぎて、む、むちゃくちゃ、変なこと言ってたよ」
ブハッとアキが噴き出して笑う。私も泣きながら同じように大声で笑った。
ボートから降りてもしばらくふわふわと地面が揺れているように感じて、二人でお互いの腰に手を回してゆっくりと歩いた。
アキ。頑張ろうよ。
これからも、一生懸命やろうよ。
相手が何を欲してて、しかもそれが、いい結果に繋がるどうかなんて、分からないけど。
最悪の出来事に加担する可能性は、これからも消えないけど。でもさ。
「怖かったけど…なんか、ちょっと気持ちよかったな。」
そう、それ。
かほ
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