先輩が、ある時を境に厳しくなった。
とはいえ豹変したという程でもなく、相変わらず淡々と、職務上必要なことを教えてくれる。変わったことといえば、「じゃあ後は私がやっとくから。」よく、そういう風に話に区切りをつけてくれた先輩が、じっと最後まで私が仕事をやり遂げる様を見守るようになったことぐらい。それに加えて、「もし私がいない時は」そういう言い回しをよく使うようになった。
週末、先輩を飲みに誘ってみると、おういいね、と軽い返事が返ってきた。先輩がパソコンから目を離さないことだけが少し気になった。
いつもの居酒屋のいつものカウンターの端で、いつものようにハイボールで乾杯をする。私も先輩もビールを飲まなかった。ビールは合わないものと一緒に飲んでしまった時に毒物のような味になる、という意見が一致して、私たちは仲良くなった。
ポテトサラダといぶりがっこをつまみながら、しばらく仕事の話をして、上司への不満を吐露する頃には、すっかりいつもの寛いだ雰囲気が醸されていた。
私は、もういいかな、と思い「先輩、転職するんですか?」と溜め込んでいた思いを口にした。先輩はハイボールの氷を揺らしながら、「ん〜。」と困ったように声を漏らす。「転職、ということに、しておいた方がええんかなぁ。」と、逆に問い掛けてくる先輩に私は「え?結婚とかですか?退職?」と詰め寄った。その瞬間「あっはははは!」と大きな声で笑い出した先輩に、私はつい怪訝な顔をしてしまう。
「いや、ごめん…。あはは、違いすぎて、笑てもおた。ごめんな。」
じゃあ、と話しかけた私を遮るように、先輩は「次、日本酒やろ、あれ美味しそう、李白の。」と壁の張り紙を指差して、また私から目を離した。何かもう随分と先輩が遠い場所へ行ってしまったかのような錯覚に襲われる。凡庸な私では絶対に行くことが出来ない遠い場所へ。
まめ鯵の唐揚げが口内に刺さることを気にして、慎重になっている時に、突然、先輩が「多分、急に、辞めることになると思うねん。」と話し始めた。私はなるべく、先輩が我に返って口を噤むことがないように、最新の注意を払って、小さく頷いた。
「いつになるかは、ちょっとまだよくわからんくて、ただその時が来たら、多分その日の内に、こっからはいなくなるから。」
先輩はそう言うと緩慢な動きで猪口を口に運び、舐めるように冷酒を飲み始めた。
「さすがに…もうちょっと教えてくれないと、腹立つんですけど…。誰と、どこに行くんですか。」私は、感情を露わにすると、すぐに泣いてしまいそうになる。先輩はそれを知っているから、慌てたように手を振って、「違う、隠したいんじゃないけど、どう言えばいいのか、わからんねん。」と早口で話した。それから、ほんまに、話むちゃくちゃになるかもしらんけど、と前置きをして話し始めた。私は相槌を打つことも忘れて、遠い国の話を聞くようにぼんやりと聞いていた。
「全く好きとか、そういうのではないねんけど、どうしても、執着というか、そういう繋がりが切れへん人がおって、ほんまにもう、どっちかというと憎いぐらいの奴なんやけどな、その人が、もうあかんわ、て言うてきて、もうどうしてもここでやっていかれへん、逃げたいって、なんで私に言うてくんねんと思ってんけど、けどな、じゃあ二人で一緒に崩れてしまおうか、と思ってしまったんよ。意味わからんよな。私もわからんねんけど。とりあえず誰も知らんところに行って、なるべく、誰にも会わずに、いる、ということなんかな、え、多分死にたいということではないと思ってんねんけど。でも誰にも会わずにいたら死ぬよな、どうなんねやろ、ようわからん。でもとりあえずそういう風にしようか、ということになって、じゃあ今から、て感じで話まとまりかけてんけどな。ふと、あかん、会社の奥の金庫の鍵、持って帰ってきてもおた、と思って。そしたら、もうこの鍵がなかったら明日みんな、あのお金出されへんやん、と思って。そしたら、もう茂木さんパニくるやろなぁとか、あんたとか尚子とか、めっちゃ電話かけてきて、泣くやろなぁとか考え出したら、ごめん、やっぱり、ちょっと待って今すぐは無理やわ、てことになって、まぁじゃあ、準備が整い次第、破滅に向かいましょうか、ということになってん。やから、とりあえずあんたに、仕事よう覚えてもらったり、猫の引き取り手探したり、まぁ色々…ごめんなまじで。普通言わんと決行するやつやんな、こういうのって。」
「そう、ですね、真面目に、破滅の準備整えるのは、あんまり聞いたことないです。」
私はまだ頭に靄がかかっているようで、上の空で返事をしていた。ガシャッと厨房から皿が割れる音が響いて、先輩が久々に顔を上げた。少しスッキリしたような晴れやかな表情に見えた。
「一人で暮らしとっても、こんだけ放り出せへんことがあるんやもんなぁ。そら、家族がいる人なんかは、こういう気持ちを無かったことにして、やっていくしかないわなぁ。一生、正気を保ったふりをしてでも。」
もう先輩は決めてしまっている。私が何を言っても変わらないことだけが分かる。それがどうしようもなく悔しくて、見ず知らずの、先輩を水の底に沈めていこうとする誰かを憎らしく思う。
「どうしても、手を離すことはできないんですか。どうしても、先輩がついていないといけないんですか。」
私の必死の悪あがきに、先輩は何度か大きく瞬きをした。純粋な瞳で私を見つめながら
「そういう人、おらんか?どうしても、逃げ出すなら、崩れるなら、一緒に崩れてしまいたい、と思う人。投げ出すことでやっと、一緒にいられるような人。」と、零すように口にした。私は考えた。例えば、私の恩人であるこの先輩が、少し前から交際している恋人が、水に沈んでいこうとしていたら、私はきっと必死に手を握って、上へ上へと泳ごうとするだろう。でも、重さに耐えきれず、自分の体が少しずつ下へ沈んでいく。息が苦しい。そうなったら。そうなったら、私はきっと手を離す。泣きながら、水の中でも、たくさんたくさん涙を流しながら、きっと振り返ることもなく一人で必死に泳いで、浮上していくだろう。頭の中ですら、そう考える自分が悲しくて、気づくと私は本当に泣いていた。
「私は、一人で、ここで生きていくと思います。悲しいし、寂しいけど。」
先輩はにっこりと笑って「あんたは、すごいなぁ。ちゃんと、ここにいるんやね。」と言いながら私の背をさすってくれた。
もう本当は、自分はここにはいないのに、先輩はちゃんと明日も会社に来る。私に仕事を教える。上司のつまらない話に愛想笑いをする。メールの返信を済ませて、来年の人事の話なんかをする。猫の引き取り手を探す。
自分がいなくなっても、誰かが困らないように。ちゃんとこの世界が回り続けるように。
もう本当は、自分はここにはいないのに。
かほ
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