寂しさの故郷

「諦めなければいつか夢は叶う」

「限界を知るために生きているわけじゃない」

そういう所謂名言のようなものは、まるでそれが普遍的な価値を示しているかのように偉そうな顔をしているが、どこかの国にはきっと、いや同じ国の中にさえ、真逆の言説というのは存在しているもので、それはそれでまた、これこそが恒久的な価値なのだと、自信満々に足を組んで座しているように思える。

私はその中から、今の私に必要な言葉を選びとって、まるで聖なる力を得たように頷いて明日を生きる糧にする。

これまでも、それが一つの答えであるわけではないことにはもちろん気づきながら、今の私にとってはこの言葉が必要なのだと、なるべく他の価値観が滑り込んでこないように耳を塞いでいるようなことが幾度もあった。

真逆の価値観であっても、時と場合によって、それらは双方に必要なものであって、そのどちらもが、正しいものなのだ、という風に解釈してきた。

しかし最近、コロナウイルスに関しての世間の様子などが、深く関わっているように思うが、そうじゃないのでは、という考えがよく頭をよぎるようになってきた。

どちらもが正しいわけではなく、どちらもが間違っているのではないか、いや、名言と言われる考え方の素地みたいなもんは、人の信念なんてもんは、その全てが間違いなんじゃないか、と思えてならない。
その人の認識の歪みが形を成しているだけの。

経験し、考えた結果といえど、それを考え始めた時から人は偏った存在である。
存在する時点で歪んでいる。
(赤ん坊は尊く思えるのは、そういう歪みが無いからかな。しかし、そんなままでは到底生きていけない。)
間違いなど一つもない、のではない、どちらかと言えば、正しさなど一つもないのではないか、という寂しい考えが拭えない。

認識の歪みを正すには、外を見るより他は無く、そうして変化をしながら生きている誰かを貴く思う。そして、その変化をした暁に居る誰かも、また歪んでいるのだろうと思う。

そして私は迷子になってしまったような寂しさに襲われる。

こういう時、私は娘といても、家族と笑っていても、孤独になることができる。
孤独はどうして寂しいのだろう。

他者といることが孤独を打ち消すものでないのなら、人は結局いつだって孤独だ。
なら人は、元来寂しいものなのか。
そうなのかもしれないけど、孤独は必ずしも寂しいものではないはずだ。
凪いだ海に浮かんでいるような心地よい孤独だってあるはずだ。

孤独と寂しさが結びつけられてしまうのは、寂しさというものが「無価値な自分」を嗅ぎ当てるからではないかという風に思う。

他者に認められて初めて、自分の価値が信じられるということは多い。
だから誰かと共に在ることで、相手が笑ってくれた、それだけのことでも、人はそこに微かな自分の存在意義を見出せるのではないかな。少なくとも、私はそうだ。

だけども、それは意外とその場凌ぎでしかなく、相手が去れば、消えてしまう程度の儚い存在意義でもある。

だから私は、何かを作り、生み出して、私とは切り離された存在としての表現物を客観的に感知したいのだろうと思う。

自分の書いたものを読み返して、作った音楽を聴き返して、自分の中で自分の価値を認識していきたい。

それこそが本当の意味での寂しさからの解放であり、孤独な世界を生き抜く足掛かりなのだ。

今は、それがあんまりに稚拙なものだから、変わらずに、寂しさが渦巻いているのだろうな。

作ることでしか救われないという人間は、私の身の回りにもいる。
孤独を生き抜く足掛かりを作るためにみんなもがいているんだな、と思うと、まだ自分で自分を最高だと思えるものを一度も作ったことがない私だが、なんとかそのために踏ん張っていかねばならん、と思うことができる。

諦めなければいつか夢が叶う、と私は思うことはできないけど、しぶとく諦めなかった人間だけが感じ取れること、というのはあるんじゃないかと思う。
それが、今の私の認識の歪みが生み出した考えであろうとも。


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