「あと何分?」
後部座席にシートベルトで張り付けにされた娘が訴えてくる。彼女がこの言葉を発するのは、これで6回目のことだ。
「あと、十、三、分ぐらいかな。」
バックミラーで娘の膨れっ面を確認しつつ、私は笑顔を取り繕った。「あと何分?」は最近の娘の口癖になっていて、この車社会である群馬県に生まれた宿命ともいえる後部座席で過ごす時間、要するに目的地に着くまでの暇を紛らわせる一つの手段となっているようだった。
「赤信号〜赤は〜止まれ〜黄色も止まれ〜青止まれ〜」
「いや一生渡られへんやんけ。」
この間まで寝返りが打てずに怒り狂っていたはずの娘はいつの間にやら4歳になり、自分で服を選び、友達の好きな色を覚え、意識的に小ボケをかますまでになった。なんと月日の経つのは早いことか。後10年もすれば娘はいつも点Pを追い越しにかかる点Qに憤慨しているかもしれないし、後15年もすればサークルのろくでもない先輩達が飲み会で始めた謎の相撲大会の行司をやらされているかもしれない。嗚呼、娘よ。君は自由だ。でもたまにはこの、居住2日目に君が畳にクレヨンを塗ったくった生家に、帰ってきておくれ。その頃には、よりちゃん、おらんかもなぁ、また違う猫さんが家にいるのだろうか。いやや死なんといてよりちゃん!!
自宅に到着し、娘のシートベルトを外しながらも、脳内は活発に活動を続けていた。その時、娘が「ねぇねぇ母ちゃん。」と私の意識を今現在に呼び戻した。
「ゆっちゃんさぁ、かぶとさんになるまで、あと何分?」
「えっ…かぶとさんになるまで…」
かぶとさんになるまで、とは、保育園で一つ進級し、かぶと組になるまで、ということだ。つまり来年の4月。あと何分!?えーと、今が8月やからざっくり後7ヶ月として、一日は60分×24時間で1440分。1ヶ月間では、電卓、電卓、43200分。それの7ヶ月分、で…
えー
「30万2400分…ぐらいやな。」
「さんじうま…そっかぁ!」
何を満足気にしとんねん。しかし、近頃はとにかく来年になったら、10年も経てば、と色々な物事の先を見通して、予見して、大きな間違いを起こさないようにと考えて動いたり、動かなかったり、ぐっと堪えたり。まぁ、これが大人だわな、と納得して。家事や育児や仕事を繰り返して、生活の中でいつの間にか自動化して無機質に行っていることも少なくない。そうこうしている内に、今日もまた日が暮れて…。そうかぁ、30万2400分かぁ。結構あんなぁ、と正直思った。
30万2400分。
そうか。娘がいつも点Pを追い越しにかかる点Qに憤慨するまで、まだ525万6000分もあるし、サークルのろくでもない先輩達が飲み会で始めた謎の相撲大会の行司をやらされるまでには、まだ788万4000分もあるのか。そうか、そうかそうか。
私は強く、弱く、秋雨を落とし続ける灰色の空を見上げる。一面が暗く広がっている空は、それでも雲を毎分毎秒、向こうへ向こうへと押しやっている。再び青い空が見えるまで。毎分、毎秒。
娘が車の後部座席から降りてくる。足を少し滑らせる。それでも足を踏ん張って、きちんと地に着地する。足が長くなった。強くなった。「ねぇ、お家に入ったら、チョコアイスが食べたいんだけど。」と私が世界で一番可愛いと思っているくりくりの目で、甘えたことを言う時の猫なで声で、いつも頂上がてかっと光る柔らかいほっぺたで。
この一分。この一分だ。この一分。
30万2400分を生きてやる。525万6000分を、788万4000分を。ありがとう娘。私は君がいるから、こう考えた。君に笑ってほしいと言いながら、私が笑っている。君に楽しんでほしいと言いながら、私が楽しんでいる。
この一分。
かほ
書きたいこと書いていく場所
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