最近、しゃぼん玉にはまっている娘。手をシャボン液でべったべたにしながら、しゃぼん玉を生み出す魔法を使える愉悦に浸っている。大型連休とはいえ、なかなか外出もしにくい昨今、庭でしゃぼん玉をすることは、私たち親子にとっての癒しの時間となっていた。
その日も娘は庭で大量のしゃぼん玉を生み出し、生み出した瞬間にそれを自らの手で破壊するというある種アーティスティックとも言える衝動に身を任せていた。その時、一つのしゃぼん玉が娘の手をすり抜け、風に乗ってふわりと空へ舞い上がった。娘は手が届かないところまで上っていったそれを、しゃぼん玉を映した丸い目で見つめながら「ばいばーい!」と大きく手を振った。気を衒わずにこういう可愛いことができてしまうところが、このくらいの年齢の子どものすごいところだな、なんて考えながら私はほっこりとして微笑んでいた。
その時、家の前の道路から「ばいばーい!!」と大きな声が響いてきた。ぎょっとして見ると、散歩をしていた近所のご婦人が、通り過ぎる自分に娘が声をかけてきたと勘違いし、満面の笑顔で娘に手を振ってくれていた。満面の笑顔で。娘に合わせて両手をぶんぶんと振って。その瞬間、私の頭の中は、この人が自分の勘違いに決して気付かないように振る舞わなければならない、ということでいっぱいになった。空を見上げる娘の視点を下げるように頭を押さえ、きょとんとして固まっている娘の腕を掴んで力の抜けた意志のない腕を無理やりぶんぶんと振らせる。「ばいば〜い!!」と若干高めの声を作って叫ぶ。私が。笑顔のまま去っていくその人にほっと胸を撫で下ろす。
こういうことがある度に、自分自身の恥ずかしい瞬間がどうしても思い出されてしまう。恥ずかしさというものは、私にとってものすごく強い、何よりも強い感情である。大袈裟にいうと恥ずかしさは人を殺す。
小学校の頃の記憶はほぼ全て消失している私だが、恥ずかしかった瞬間の映像だけは今でも脳の壁にこびりつくように残っている。中学年の頃、参観日に算数の授業を受けていた。図形の問題で一本だけ線を引いて面積が求められる形にしよう、というような問いにクラスで取り組んでいた。最初は大勢のクラスメイトが手を挙げていたが、私たちにとってはなかなかの難問で誰も正解に辿り着ける者が出なかった。そんな中私は、まだ誰も出していない解答を頭に思い描いていたため、問われる度に手を挙げ続けた。徐々に、先生が私を敢えて当てていないことに気がついた。目が合っても、にっこりと微笑み別の子どもを指す。その頃は自分で言うのもなんだが、勉強ができる方であったため、担任の先生が自分に期待していることをひしひしと感じ取った。先生は私を最終兵器としてとっているんだ、みんなが間違えた後に私を当てて正解を言わせる腹づもりなんだ、と武者振るいをした。どんだけ自意識過剰なんだと今は思うが、実際私は誰もが自信を無くして手を上げなくなった時にやっと差され、満を持して前に出た。
頭の中に秘め続けた一本の線を黒板に書き足した。先生が黙った。間違えたことが分かった。
「…あぁ〜なるほどっ!惜しい!」
先生の気遣いが込もりに込もったその言葉が私の「恥ずかしい」を最大限まで増幅させた。あまりに恥ずかしくてその場で溶けて無くなりたかった。先生がヒントを話す声が耳の中で残響して全く聞き取れない。自意識というものがこの頃の私にとっては何よりも大きな大きな壁だったのだろう。
誰かが間違えた時、勘違いをした時、震えるほど上手く、相手が傷つかないように、笑いを交えてフォローし、場を収めることができる人間がいる。そういう人は多分、今、この場で溶けて無くなりたいと強く思ったことのある同志なのではないか、と思う。恥をかいた分だけ優しくなれる。今はそう思えるようにもなり、ベストを尽くした末の間違いや勘違いは、概ね肯定することにした。
娘に満面の笑みで両手を大きく振ってくれたご婦人が振り返って歩き出した後、(あれ、ひょっとしてしゃぼん玉に言ってた…?)と気づいて顔を真っ赤にするようなことが無いことを祈る。その勘違いのおかげで行き合う時に、にこにこと挨拶をする関係が一つできたのだから。
かほ
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