人生はままならないものである。
それでこそ、それでこそ、である。
私は日常的な描写を大切にする物語が好きで、非日常的なものを避ける傾向があり、そこがよくないと思っている。
しかしジャンルに関わらず、名作と言われている作品は古今東西あらゆるものがやはり素晴らしくって、鑑賞した後はこれまでの自分がどこか更新されるように思う。
色々なものをよく観て、よく考えて、自分の土壌を豊かにしたいと相変わらず思う。
それと同時に、自分が圧倒的に確かな価値を感じる作品はやはり「日常」である、とも明確に思う。
こうの史代のように
長谷川町子のように。
星野立子のように。
あのような社会の人生の捉え方こそが自分にとっては圧倒的に価値がある。
日常をユーモアを込めながら繊細に描くということは、戦争や貧困といった社会の大きな問題から目を背けることでは断じてなく、むしろそれらの問題を自己の勝手な解釈によって矮小化しないということだ。
その苦しさから目を背けているということでは断じてなく、むしろ否応なくその問題に直面しながら生活をする人々を時代ごと描き切るということだ。
社会問題はその時代に生きる全ての人の人生を内包する。
その人の人生の一部分を焦点化せずに描くということは、その時代の社会問題を含めた空気を丸ごと写しとる。
私たちは常に大きな問題を抱えているが、暮らしの中でそれらの問題と関係を持ったり、たったの一時、関係を断ったりしながら、幸せな時間を求めている。
私は時代は違えど、そうして私と同じように生活をした人々の暮らしから、対等に美しい生き様を学びとりたい。
映画ってすごいな。
しかし疲れる。
これから頑張って黒澤明の映画を観ようと思います。
しんどいなぁ。
私は今日すごく悲しくて、
こんなところに書くことでもないけど、まぁ親しくしてくれてる人しか見ないだろうからいいかと思って書くけど、生理がきた。
私は二人目の子どもを授かりたくて、半年ほど、頭の片隅にそのことを置きながら生活をしている。
毎月予定日が近づく度に、これまでとは体の調子が違うような気がして、お腹に両手をそっと置いて、ほんの些細な腹部の痛みに一喜一憂しながら、眠りにつく。
そしてまた、下腹部の鈍痛に目を覚ましては、溜息を溢して、血液の下る感覚に胸が苦しくなりながらも、急いでトイレに駆け込む。
不妊、という言葉が頭を掠めては、いやぁ、まだそんな、いや、いや、と無理矢理、思考を止める。
冷静になってから経済的なことや、社会情勢やと考え始めると、今ここに産み落とすって、まぁまぁヘビーな人生に強制参加させることになるんかなぁとか、思って、これでよかったんじゃない?なんてほんのり思って、それでもやっぱり、やっぱりなぁ、会いたいよ、と思う。
私はこういう生物なんだと諦めるしかない。
ごめん。
頑張るから、なんとか君が、生まれてきてラッキーだったなと楽観できるように、頑張るからさ。
なんとかきてくれないかなぁ。
夫と娘と、君と、暮らしたいんだよぉ。
お待ちしてますよ。
はぁ〜。
よいしょ、よいしょ、よいっしょー!
『悲しくて悲しくてとてもやりきれない。』
って、あのメロディで、先に歌ってくれた人がこの世にいて本当にありがたいなぁ。
家族がいてくれて友人がいてくれて本当にありがたいなぁ。
大丈夫だわ。うん。
かほ
書きたいこと書いていく場所
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