鬼滅の刃には、とても感謝している。
そうだよね、そうだよねぇ、とたくさんの勇気をもらった。
私は、人が弱いままで、それでも選択をすれば、概ね楽しく生きていける社会は素晴らしいと思う。
障害が多くて、そこに立ち向かえる人しか幸福感を得られない社会は辛いと思う。
でも私は、ここがどんな社会であるかにかかわらず一生懸命頑張って、能力を高めて、できる限り逞しく強くなりたいと思う。
そして、自分の限界をちゃんと知って、それ以上のものを齎してくれる周りの人に心から感謝できる人になりたいと思う。
この作品は努力とか感謝とか、他人を優先する優しさとか、私たちの中で当たり前になって、擦り切れて、冷笑されることすらあった価値観を、もう一度、それは美しくて、尊いものなんだと広く深く伝えてくれたような気がする。
大人に近づきかけた子どもが、珍しくもなく、必死の努力を笑うようになるのは何故だろう。
少しだけズルいことや、人を冷ややかに見下すような態度が、集団の中で不思議な地位を占めるのは、どうしてだろう。
頑張ることは、苦しさを伴うから。
頑張りきれない自分を直視することは、もっと苦しいことだから。
頑張れば頑張るだけ、手の届かない大きな存在を実感しなければならないから。
頑張ってる人を見下すことが、最も楽に自分を肯定する方法だから。
それでも、自分は優れている人間だと信じていたい。
だから「努力」することが当たり前のこの社会では、それを嘲笑うことで、自分の優位を感じていたい。
そんな感じだろうか。
炭治郎は、自分のことを優れているとは、全く思っていない。
一つ違えば、玄弥のように自分も鬼を喰ったかもしれない。
もし、自分がここで死んでいたら、自分の魂も、あの山に帰った。
そんな風に、今、自分が正しくここで生きていられる偶然性をよく理解している。
その上で炭治郎は努力をする。
長い時間をかけて、こつこつと、鍛錬を積み、考えて実行して、私たちが何かを学ぶ時にそうするように、一つ一つをきちんと積み重ねていく。
自分は特別ではないから。
自分は優れた存在ではないから、と。
特別な才能に恵まれていない自分を受け入れて、当たり前のように努力をし続ける炭治郎はかっこいい。
凡庸な存在である個人を肯定しながら、
その凡庸な命の持つ大きな可能性も示唆している。
人の弱さを決して否定せず、ただし、その弱さに留まり続けることは是としない。
だから、多くの子どもは炭治郎に憧れるのではないだろうか。
どうやら、自分も特別ではないから。
それでもきっと、努力をすれば、強くなっていけるから。
他から抜きん出るための努力ではなく、
凡庸な自分を鍛えて、他人を守れるような強さを得るための努力。その尊さ。
そんなことを子ども達に伝えてくれたのだとしたら、本当に素晴らしいムーブメントだなぁと、しみじみと思う。
最終巻の書き下ろし。
感動しました。
ありがとうございました。
かほ
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